『バレンタイン』
2月14日、18時、仕事終え、静かに帰路に着く。
今日は、この時期にしてはずいぶんと温かい。夜になっても重ね着ていたダウンジャケットやマフラーは必要ないほどで、薄暗い帰り道、右手に大きな荷物となり抱え歩く。妻からの連絡で、玉ねぎを買って帰って欲しいと頼まれ、スーパーにも寄ったため、両手に荷物を抱えることになった。
玄関を開けるのに手こずりながら、帰ってきたことに気づいているのだろうから、鍵を開けてくれてもいいだろうにと、ため息が出る。
ガサゴソと音を立てながらリビングのドアを開けると、エプロン姿の妻がキッチンからやっと顔を出し、何とか聞こえる小さな声で「おかえり」とだけ告げる。両手に抱えた荷物をジッと見て、フンっとガッカリしたような顔をしてキッチンに戻って行く。妻の後ろ姿を視線で追いかけていると、テーブルの上に置かれた鮮やかな色の紙袋が目に止まる。
ああ、そうだ、今日はバレンタインデーだ。
若い頃の俺は、バレンタインになると、職場から決して少なくない数のチョコレートを持ち帰っていた。既婚者相手に真剣にチョコレートを渡してくる女性などは居ようもないが、貴重な若い男性社員は可愛がられ、儀礼的なチョコレートを多くもらった。中には義理チョコとは思えないものもあったが、、、
チョコレートを多く持ち帰ることに、妻は嫌な顔を一つ見せなかった。そんな夫の妻であることに優越感を滲ませるような笑顔だった。何より、大の甘党の妻はたくさんのチョコレートに目を輝かせた。普段、甘い物を殆ど食べない俺は、それで妻が笑顔になるならと誇らしく差し出した。
40代になった俺は、白髪混じりで生え際も後退気味だ。お腹も少し出てきた、、、いや、結構ポッコリだ。歯の隙間も広がり、笑顔に若い頃の爽やかさは感じられない。儀礼的なチョコレートは次の世代に引き継がれた。もう一つももらえない。
朝礼後、女性社員から若い男性社員へ渡されるチョコレートのやりとりをひきつる顔を必死に抑えながら、微笑ましく眺めている上司の雰囲気を崩さぬよう努めた。(普通、上司にこそ儀礼は必要ではないのか?うちの会社の女性は強すぎる、、、)
妻は明らかにガッカリしているのだ。去年だって職場から一つも持ち帰っていない。一昨年、お局の佐藤さんにもらったのが最後だ。バレンタインの日は朝からズル休みしたいと思うくらい苦痛に感じている。しかし、役職的にそうはいかない。俺だって、手ぶらで帰るのも誰からももらえないのは寂しいに決まっている。
妻に「今日はカレーかな?」と声をかけたところ、「そうよ、早く手を洗ってきなさいな、オジサン」と言われる。
洗面所で手を洗い、改めてテーブルを見ると、3つの紙袋が乗っている。これまた見事な大・大・小だ。うちは4人家族で女性は妻だけ。俺、長男、次男の3人。
おそるおそる妻に「コホン、これは、、、」と紙袋を指差す。「ああ、バレンタインだからね。オジサンのは一番小さいのね。子供たちには後で渡すから。2人ともバレンタインにデートなんて、やるわよね。後でしっかり話し聞かせてもらわなきゃね。」オジサン呼びはまだ継続している。ふーんと言いながら、唯一のチョコレートが嬉しく安堵もする。ありがたく頂戴するよとさっそく開封したところ、去年と全く同じウィスキーではなく、日本酒ボンボン6個入りだ。昨年、食べてみて、硬いチョコレートに歯を入れると勢いよく飛び出してくる日本酒に咽せてしまい、感謝の言葉の中に遠回しに日本酒は苦手であることを紛らせて伝えたつもりが、全く覚えても伝わってもいなかったらしい。
まあ、でも感謝しなきゃな。妻は家族としての儀礼は守り続けてくれている。帰宅後は「オジサン」呼びが続いているが、朝は「あんた」と呼んでくれた。化粧の乗りが良く機嫌いい日なら「パパ」と呼んでくれることもある。何より、来年のバレンタインにもきっと日本酒ボンボンがもらえるだろう。しかし、胡座をかいてはいけない、妻だって、いつ儀礼をやめてしまうか分からない。感謝は強めに伝えるべきかもしれない。そうだ、会社で若い社員がやっていたあれをやってみるか。まだ流行っているのかどうかは知らないが、、、
両手の指でハートをつくり、
44歳、本気の「キューンです!」
「ふふ、なにそれ、バカじゃないの」
あっ、笑った!
2/14/2026, 2:58:19 PM