ふっと吐息を溢せば、途端にそれは白い氷の結晶となって地に降り注ぐ。
「綺麗だね……」
惚けたような声に、肩が跳ねた。じわじわと熱が顔に集まって、堪らず彼に背を向ける。
恥ずかしい。今まで当たり前だと思っていた行為を褒められるなど、初めてだ。どう反応すればいいのか分からなくて、落ち着かない。
「ごめん。嫌だった?」
咄嗟に首を振る。
嫌ではない。それを伝えなければと思うのに、震える唇からは何も言葉が出てこない。
ほぅ、と溜息が溢れる。
「あ……」
いつもならばすぐに凍ってしまうだろう息は、けれども凍らずに空気を白く染めて消えていった。
まただ。
彼の側にいると、時々息が凍らないことがある。
彼の言葉一つで体中に不思議な熱が広がって、くらくらと目眩がしそうだ。
決して嫌ではない思いにもう一度凍らない吐息を溢し、目を細める。まるでただの人間になった気がして、緩みかけた口元を慌てて引き締めた。
勘違いをしてはいけない。触れたものをすべて凍らせるような化け物が、人間であるはずがないのだから。
「どうしたの?」
黙ったまま動かない私を心配して、側に来た彼に顔を覗き込まれた。
肩が跳ねる。近づく距離に、益々熱が上がっていく。
「な、なんでもないよ」
首を振るが彼は僅かに眉を寄せ、離れていく様子はない。
「そう?気分が悪いんだったら、無理はしないで」
「大丈夫。そっちこそ気を付けて。私と違って、あなたは寒さに強いわけではないんだから」
自分とは違うのだから。
そう心の中で繰り返す。浮ついた心を戒めるように、自分が今まで凍らせてきたものたちを思い浮かべた。
草花。動物。そして人間。
終わりに向かっていくそれらを引き留めようと、凍らせて時を止めた。
零れ落ちていく命を引き留めたかった。一人、置いていかれたくはなかった。
けれども一度止めた時を再び動かすことはできず、目覚めない眠りについた体だけが増えていくだけだった。
ただ一人、彼を除いて。
「最近は寒いとか、あんまり感じなくなってるけど……そうだね。気を付けるよ」
凍らせた時が再び動き出した、特別な彼。
今でも普通の人間よりも体温が低く、定期的に通院しなければならないらしい。それでも彼の鼓動は止まることなく、しっかりと時を刻んでいる。
「救ってもらった命なんだ。大切にする」
微笑む彼から視線を逸らす。
そっと胸に手を当てると、とくとくと鼓動が速くなっていくのを感じた。
化け物でも鼓動は刻めるらしい。思わず自嘲して、彼に背を向けた。
「気を付けて。今度凍ってしまったら、溶けても動けなくなるだろうし」
「帰るの?」
「うん。じゃあね」
これ以上は自分が惨めに感じられるだけだ。そう思い歩き出せば、しかし後ろから伸びた手に腕を掴まれ止められてしまう。
「待って」
ぐい、と腕を引かれ、彼へと倒れこむ。慌てて距離を取ろうとするものの彼の手は離れず、焦りだけが募っていく。
このままでは、彼がまた凍ってしまう。振りほどくためにその手を掴むのすら怖かった。
「ちょっと……っ!」
「大丈夫。凍らない」
彼に視線を向ければ穏やかな目に見据えられ、途端に動けなくなってしまう。
吐く息が白い。掴まれた場所からじんわりと熱が広がって、自分を化け物から人間へと戻してくれるような錯覚に息を呑む。
「少し前から思ってたんだけどさ」
真っすぐな目に絡めとられ、指先一つ動かせない。掴まれた腕を上げられ手を繋がれるのを、悲痛な思いで見つめていた。
触れてしまったなら、すべてが凍ってしまう。耐えきれずに目を閉じ、失われていくであろう熱を思って唇を嚙み締めた。
「凍らないよ。だからそんなに怖がらないで」
「――え?」
予想した結末とは違い、繋いだ手からは温もりが伝わってくる。大丈夫だと穏やかに告げられ恐る恐る目を開ければ、優しく笑う彼と目が合った。
「ほら、大丈夫だった……思ってたんだ。今の君なら、きっと何でも凍らせることはないって」
彼の声が、どこか遠い。目の前で起こっている奇跡に、思考が追い付かない。
何故、どうして。ぐるぐると回る疑問に、段々と視界が滲み出す。
「君も気づいていたんだよね?だから最近、手袋をしなくなった」
何も言えずに俯いた。
気づいていた訳ではない。ただの願望だった。
息が凍らないのなら直接触れ合えることができるのではと、甘い夢を見ていただけのこと。
「これは勝手な想像だけど」
優しい声に、鼓動が速くなる。つきりとした痛みを覚えて、さらに視界が滲んでいく。
瞬きをした弾みで溢れ落ちた涙は、けれど途中で凍ることなく地面に落ちていった。
「君自身が凍っているから、息も涙も、触れたものも凍るんだ。だからもっと、誰かと一緒にいた方がいい」
「誰かとって......誰と?」
そっと顔を上げる。滲んだ視界越しにも、彼が楽しそうに笑っているのが見えた。
「誰でもいいけど......例えば、俺なんかどう?自惚れだけど、俺と一緒にいることで息も涙も溶けてくんだって思ってるから」
その笑顔に息を呑んだ。
遅れてじわじわと、顔も繋いだ手も熱くなっていく。
自惚れなんかではない。彼だから熱が生まれて、体中に広がるのだ。
けれどもそれを言葉にはできず。ただ小さく頷くのが精一杯の答えだった。
体が熱い。彼も体温は低いはずなのに、繋いだ手から熱を感じて溶けてしまいそうだ。
間近で見る彼の笑顔に、鼓動が跳ねる。その激しさに息が苦しい。
「なら、まだ帰らないで一緒にいようか。このまま散歩するのもいいね」
頷いて、彼と共に歩き出す。
手は繋いだまま。吐き出す息は白く、拭った涙は凍ることはない。
歩きながら、彼を見る。繋いだ手を見て、そこから伝わる熱を感じてあぁ、と声を出さずに吐息を漏らした。
この熱の正体が何なのか。
ようやく分かった気がした。
20251207 『白い吐息』
目の前には、一面の白が広がっていた。
空は重く、厚い雲に覆われて、時間の感覚を曖昧にさせている。大地もまた厚い雪に覆われ、空と地平の堺すら分からない。
何もない。あるのは雪の白だけだ。
足を踏み出す度に雪に刻まれる足跡も、やがては消えてなくなるのだろう。
それでも足は止まらなかった。
行く理由はない。
けれども、戻る理由も見つからなかった。
しばらく歩みを進めていれば、遠くに白以外の何かが見えた。
殆どが雪に埋もれたそれは、どうやら道標のようだった。
近づいて、そっと雪を払ってみる。しかし文字は雪に削られ、読むことは叶わない。
道標が指し示すのは、二点。今まで歩いてきた方角と、これから進むべき方角。
自分が何処から来て、何処へ行くのかはやはり分からない。
誰が何のために立てたのか。立てた誰かは、この雪原の先に何があるのかを知っていたのか。
一人きり、進むことの意味を知っているだろうか。
一度だけ後ろを振り返り、消えていく自分の足跡を一瞥する。
道標へと視線を移し、そして指し示す先を見た。
ゆっくりと歩き出す。
この先に何があるのかは分からない。
けれどもやはり、今更戻る理由はなかった。
歩き続けて、また白以外の何かが落ちているのに気づく。
どうやらそれは、片方だけの赤い手袋のようだった。
手袋を前に、拾い上げるかどうかを悩む。
持ち主は、手袋を落としたことに気づいて戻ってくるだろうか。ここで自分が拾い上げてしまったら、戻って来た時にすれ違ってしまうかもしれない。
周囲をぐるりと見渡した。変わらず空は雲に覆われ、何処までも続く雪原の果てと境界を溶かしてしまっている。
辺りに人影はない。持ち主は落としたことにも気づかず、先へと進んで行ったのだろう。
あるいは、わざと落としていったのか。自身の存在を残すために。
ふっ、と息を吐く。
手袋はそのままに、前を向いて歩き出す。
進まなければいけない。
何故か、そう思った。
いくら進めど、雪原の光景は変わらない。
変わるとするならば、時折誰かが遺していったものが雪の白に色を添えているくらいだ。
人やものの影はなく、自分の吐息や雪を踏みしめる足音以外には何の音も聞こえない。
とても静かだ。世界に一人だけ取り残されてしまったかのよう。
また一つ、前方に誰かが遺した何かが落ちていた。
近づいて、殆ど雪に埋もれたそれを掘り起こす。現れた青い毛糸で編まれたマフラーを認め、小さく息を呑んだ。
見覚えのあるそれが、誰のものだったかを覚えてはいない。けれども、とても大切にしていたことを覚えている。
「どうして......?」
問いかけても、答える声はない。
所々ほつれた、手編みと分かるマフラーに触れても何も分からない。
置いて行ってしまった。事実が胸を苦しめる。
置いていくべきなのだろう。持ち主が置いて行ったものを、拾い上げる意味はないはずだ。
そう思うものの、マフラーを手放すことができない。
前を見て、マフラーを見る。胸に抱えたまま、静かに歩き出した。
行かなければならない。
追いかけて、伝えなければ。
ただそれだけを思い、進む足を速めていった。
「あれは......」
向かう先に微かに見えたものに、思わず足を止める。
足跡だ。雪に消されていない足跡が、雪原の先へと続いている。
人影は見えない。けれども確かに、ここに誰かがいたのだろう。
振り返らず、足跡は真っすぐに続いている。
今ならば、間に合うはずだ。手にしたマフラーを抱きしめ、足跡の先を見つめる。
一呼吸おいて、駆け出した。
どれほど走り続けたのだろう。
不思議と疲れは感じなかった。ただ変わらない景色に、見えない人影に焦りにも似た感情が沸き上がる。
ふと遥か遠く、ほんの僅かに光が見えた。雪の白とはまた違う光に、走る速度を上げる。
「っ、待って......!」
光は小さく、まだ遠い。それでも光に向けて、必死に手を伸ばす。
行かなければ。引き留めなければ。
溢れる感情に翻弄されながらも、足を止めることはない。
ただ只管に光に向かい、雪原の先へ行くため走り続けた。
光が近づく。その先に誰かの背が見える。
「行かないでっ!」
誰かの背に向かい、手を伸ばす。
その手が肩に届く、その瞬間。
真っ白に染まる視界の中、誰かが振り向いた。
そんな気がした。
ばさり。落ちた何かが立てた音に、はっとして顔を上げた。
見慣れた自分の部屋。机の上に置かれたアラームの時計が、午後の三時を告げている。
「夢……?」
眉を寄せながら、窓の外を見た。
どんよりと厚い雲に覆われた空。ちらちらと白い雪が舞っている。
落ちた本を拾い、机の上に置きながら記憶を巡らせる。
夢を見ていたのだろうか。当てもなく歩き続けていた夢だったようにも思う。
何故だか心が落ち着かない。どこか浮ついた足取りで窓に近づき、外を眺める。
雪の白に染まり始めた外はとても静かだ。時折過ぎていく人々はどこか俯きがちで、足を止め周りを見るような余裕はなさそうだ。
心がざわつく。行かなければという思いに急き立てられるように、部屋を飛び出した。
コートとマフラーを身に着け、スマホと財布、家の鍵だけを持って家を出る。
行く当てはない。ただ、会いたい人はいた。けれど、会うのはとても怖かった。
迷うように首に巻いたマフラーを握り締める。二年前にもらった手編みのマフラーは、使っているうちにすっかりくたびれてしまった。それでも感じる温もりは、もらった時から何一つ変わらない。
マフラーに顔を埋めて、深呼吸をする。急いた心が静まって、会いたい気持ちだけが膨らんでいく。
会いに行こう。怖いからと、会いに行かずに後悔するのは嫌だから。
ゆっくりと足を踏み出した。体が軽く、次第に足が速くなっていく。
「会いたい」
思いを声に出せば、雪のように白く染まる。焦れて駆け出せば、迷いも怖さも消えていくような気がした。
少しでも早く会いたくて、息が切れるのも構わずに雪の降る道を駆け抜けていく。息苦しさとは裏腹に、口元には笑みが浮かぶ。
何を話そうか。浮つく気持ちのままに見る景色は、まるで雪原のようにどこまでも白く染まっていた。
20251208 『雪原の先へ』
12/9/2025, 1:23:47 AM