夕方、いつも通りに郵便受けを開けると、見慣れない封筒が混じっていた。
広告でも請求書でもない。
わずかに厚みのある紙。
白というより、時間を一度くぐり抜けたような淡い生成り。
封筒の縁はかすかに擦れている。
遠い距離を移動してきた痕跡。
裏返す。消印はない。
切手もない。
どうやって届いたのか——
そう考えた瞬間、思考がひとつ深い層へ沈む。
差出人欄を見た途端、
喉の奥が狭まり、眉がわずかに寄る。
見慣れているはずの、自分の筆跡。
けれど、こんなものを書いた覚えはない。
線には迷いがない。
今の私より、少しだけ筆圧が強い。
そこには、こうある。
“十年前のあなたへ”
時間が反転する。
過去へ。
十年前の私へ。
——ということは。
これは、私が書いたものなのか。
それとも、これから書くことになるものなのか。
いたずらだろうか。
いや、それにしては正確すぎる。
模倣ではない。
継続だ。
同じ手が、同じ癖のまま、
ただ十年ぶん呼吸を重ねただけの筆跡。
未来なんて、知らなくていい。
今日をやり過ごすだけで、十分なのに。
それでも私は、
何かを変えてしまう地点に立っている。
封筒は妙に重い。
中身は紙一枚に違いない。
それでもそこには、「読んだら戻れない」という質量がある。
もし、
あの選択は間違いだったと書かれていたら。
守れなかったものの名が並んでいたら。
あるいは逆に、
あの夜の涙は無駄ではなかったと静かに肯定されていたら。
どちらも怖い。
後悔の確定も、
救済の確定も、
等しく現在を侵食する。
封の糊を指先でなぞる。
まだ破っていないのに、
心臓だけが先に読んでしまっている。
「届けてきた」という事実が、いちばん厄介だ。
未来の私が、
わざわざ十年前の自分に言葉を送る理由。
慰めか。
謝罪か。
警告か。
——いや。
安易な励ましだけを送るほど、
私は単純ではない。
書くという行為は、沈黙より重い。
封筒の端が、ほんのわずかに浮く。
手が止まる。
いまの私は、まだ両側に立っていられる。
過去でもあり、未来でもある場所に。
この閉じた紙片の内側には、
十年ぶんの選択と沈黙が折りたたまれている。
呼吸を整える。
鼓動が落ち着くのを待つ。
開けるか。
戻すか。
書き直すか。
時間はまだ、封の内側で静かに折り目を守っている。
私は怖くなり、封筒をテーブルに置く。
封は破らない。
代わりに、新しい紙を出す。
「十年先のあなたへ」
書き始めた瞬間、手が止まる。
もし、
今すぐ知らなければならない何かが、
あの中にあるとしたら。
私は意を決して封を切る。
中から出てきたのは、折りたたまれた白紙。
何も書かれていない。
折り目をひとつずつ開いていくと、
その中心に包まれていたのは、
小さな黒い矩形。
SDカード。
指先でつまむ。
軽い。
なのに、重い。
再生するかどうかで、
また時間が固まる。
プレイヤーに差し込む。
小さなクリック音。
数秒の無音。
それだけで、呼吸が浅くなる。
そして——あの前奏。
一瞬でわかる。
身体が一音目で識別する。
旋律が流れ出すと、
部屋の空気がゆっくりと書き換わる。
いまの家具。
いまの壁。
いまの夕方。
それらが、薄く透ける。
あの日の光の角度。
あの人の指先。
言葉にならなかった震え。
未来の自分が送ってきたのは、
警告でも慰めでもなかった。
ただひとつ。
「忘れていない」という証明。
曲名はない。
歌もない。
あの人が私をモチーフにして作った曲。
あの日の私、そのもの。
SDカードに入っていたのは、
未来の予告でも、未練の確認でもない。
「まだ消えていない」という事実。
曲を最後まで聴く。
涙は出ない。
ただ、身体のどこかが
確かに温度を思い出す。
プレイヤーを止める。
SDカードを抜く。
テーブルに置く。
そして、気づく。
——これは未来からの手紙ではない。
「私は誰かの中で、確かに存在した」
という、現在形の証明。
未来を知る必要はない。
すでに私は、
時間を越えて残っている。
静かに。
名前も持たずに。
題 10年後の私から届いた手紙
2/15/2026, 6:48:24 PM