遠い日のぬくもりを思い出そうとして
何も浮かばないということがあるだろうか。
もしそんな事があればそれは絶望だ。
そして私はいま、その絶望のなかにいる。
思い出そうと記憶の壺に手を入れて探ってみても、そこにあるのはただの空気。空振るばかりで具体的な映像が浮かんでこない。
全く誰の愛情を受けてこなかったというわけでもない。
両親共働きで鍵っ子だったが、夕食の時間は遅くなっても食卓はいつも家族全員で囲んでいたし、衣食住に困ることもなく、大学まで通わせてもらった。
幼い頃に遊んだ顔もいくつか思い浮かぶ。かつての恋人も。でも、具体的にいつ『温かさ』を感じたかと問われれば、ここだと言える確信がない。
ざっくりと全体を囲ってしまえば、それをぬくもりと呼べるのかもしれないが、もやもやと漂う湯気のようで具体を持たない。
そもそも私にははっきりと思い出せる幼い頃の記憶が数えるほどしかない。
事故で記憶を失ったとか、強く頭を打ったということも、大きなトラウマがあるというわけでもない。
ただ単に長年記憶の棚卸しを怠ったせいで、次々に入ってくる『覚えなければならないこと』に圧縮され、手の届かないほど壺の底に追いやられてしまった。
それはきっと、人との深いつながりを避けてきたからに他ならない。
保育園、小中高校、大学、社会人になってからも、卒業する度に人間関係はリセットされ、会わなくなれば連絡も取り合わなくなる。
定期的に会って昔の話などすれば、沈んだ記憶も浮き上がってくるものだろうが、そうでなければ沈みっぱなしになるのは当然だ。
もともとマルチタスクができない人間だ。細いパイプをいくつも張り巡らせるなんて妙技は到底かなわず、一人に全集中して太いパイプをつなげてしまう。私のエネルギーを注ぐためのパイプを。
一人に意識が向かえば、それまで向き合っていた人に背を向けることになる。意識の外に出てしまった人の影は、再び視界に入るまで、また記憶の奥底に追いやられていく。
私は温かい人間でありたい。
『温かい』というのはそれだけでポジティブな言葉だ。
『温かい』をネガティブな意味で使う場面が思い浮かばない。それは『温かい』ことが『生きている』ことと同義だからだろう。
私はいま『生きている』だろうか。
『温かさ』を保てているだろうか。
自問は尽きない。
それでも確かなのは、私の心臓がいまも動いているということだ。熱を持った血液は休むことなく全身を巡っている。
遠い日のぬくもりとは、過去に『生きていた』自分の熱であり、『生かしてくれた』周りの体温だ。
自分の心臓がまだ動いているということは、これまでの人生のすべてにおいて、ずっとどこかが温かかったということだ。
具体的に思い出せなくてもいい。家族で囲んだ食卓や、友人や恋人の笑った顔は、私の脳裏にぼんやりとした湯気のように残っている。それが私の『ぬくもり』の正体だとしても、否定される筋合いはないのだ。
私の心臓は動いている。
いまはこの身の『温かさ』をどう残し、伝えられるか。自分を生かすこと、誰かを温めること。それを考えよう。
#遠い日のぬくもり
12/24/2025, 6:54:05 PM