sairo

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居間から聞こえる賑やかな声に、燈里《あかり》は小さく溜息を吐いた。
無言で戸を開ける。途端にはっきりと聞こえる二人分の声に痛む頭を抑えた。

「だから迷惑だと言ってるだろうが!」
「意地悪だわ。燈里はそんなこと一言も言わないもの。そんな甲斐性なし、きっとすぐに捨てられてしまうわね」
「燈里が俺を手放す訳ないだろうが。お前みたいな優しさにつけ込もうとする賤しい奴と一緒にするな」
「酷いわ!燈里に言いつけてやるんだからっ!」
「いい加減にして、二人とも」

白熱する冬玄《かずとら》と東の面の言葉の応酬に、燈里は堪らず声を上げる。
途端に静かになる二人を前に、燈里はもう一度疲れたように溜息を吐いた。


あれから数日が過ぎた。
西の面の接触は一度もない。燈里たちの前から姿を消した西の面は、その後祀られていた社に籠ってしまったのだという。
社は柊で囲われ、完全に外界との接触を断ってしまっている。その社の四方に方相氏は柊の枝を立て、二重に閉じたらしい。
この先当分は、西の面が出てくることはない。先日訪れた夏煉《かれん》がそう言っていた。
日常が戻ってくる。それは喜ばしいことなのだろうが、燈里の心境は複雑だった。西の面は堕ちたまま、共にいる鈴《すず》という名の少女も、方相氏たちも解放されることはないからだ。そして当分という曖昧な期間も、燈里を不安にさせる。それはいつまでなのだろうか。一年か、十年か。あるいはそれ以上か、それ以下なのか。夏煉は詳細を語らず、燈里も聞くことはしなかった。
聞かずとも、それほど長い時間ではないのだろうと、燈里は理解している。誰も足を踏み入れなかったはずの山奥が人の手によって切り開かれ、方相氏たちの施した封が解けたように、いつかあの社も人の手によって取り壊される時がくるのだろう。
社を失った後、西の面がどこに行くのか、燈里には検討がつかない。そしておそらく、それは夏煉たちも同じだろう。その時が来たとしたら、西の行方は今度こそ分からないままとなるのだろう。


「燈里!北が酷いことを言うのよ。私のことをのけ者にするの」
「許可なく家に上がり込んでいるからだろうが。というか、なんで当然のようにここにいるんだよ」

燈里に迫る勢いで東の面が近寄ろうとするのを、冬玄が眉を顰めながら引き留める。
日常に戻り始めた日々に落とされた変化。あれから事あるごとに、東の面が燈里の家を訪れるようになっていた。

「だって燈里のことが気に入ったのですもの。仲良くなりたいだけなのに、どうして北は邪魔をするのかしら」

腰に手を当て、東の面が不機嫌に声を上げる。
今の彼女は面だけでなく、着物姿の長い黒髪の少女の姿を取っていた。ひび割れあちらこちらが欠けていた面は、燈里と過ごし彼女との縁を深めるにつれ、修復が進んでいるようだ。

「燈里の信仰を糧にしているのを、気に入ったの一言で誤魔化そうとするな。初対面で燈里を夢に引きずり込んだだけでなく、危害を加えようとしたこと、忘れたとは言わせんぞ」
「あら、気に入ったのは本当のことよ。それに私は、燈里になら神でなくただの妖として認識されても文句は言わないわ」

信仰は燈里の元にくる理由ではないと暗に告げ、東の面は冬玄の腕を振り解いて燈里の腕に抱き着いた。

「今日は何を見てきたんですか」

苦笑しつつ、燈里は東の面に問いかける。
西の面を追って外に出た東の面にとって、この辺りは初めて見るものばかりのようだ。しばらくは長年繋ぎ留めていたことによる消耗と、西の面の抵抗で出来た傷により動けなかったようだが、最近では周囲を自由に見て回っているらしい。
鉄の馬を見た。空を飛ぶ鉄の鳥を見た。土や石ではない大地。行き交う人々が身に纏っているのは和装ではなく洋装だった。
事あるごとに家を訪れる東の面を燈里が拒めないのは、目を煌めかせながら無邪気に語るその様をとても可愛らしいと思ってしまっているからだ。幼い子供の目線で世界を見て、それを誰かに伝えたいという東の面の純粋さに羨ましさすら感じてしまう。
だが、今回は違うらしい。どこか悲しげに微笑み、東の面はゆるゆると首を振る。

「今日はお別れを言いに来たのよ。私、南の手伝いであちこちに行くことにしたから」

燈里は思わず息を呑んだ。
南の手伝い。つまりは堕ちてしまった西の面を元に戻す方法を探しに行くのだろう。
燈里は暫く東の面を見つめ、そっと微笑んだ。

「さよならは言いません。きっとすぐに会えるでしょうから」
「そうね。燈里は鈴《すず》に約束してくれたものね……ありがとう」

夢という媒介を通して燈里は鈴と出会い、終わりを望む彼女にささやかな可能性という名の希望を伝えた。
夏煉のように、西に面を戻す方法を探すのだと。あるのか分からないそれを、けれども鈴は信じ、今も西の腕の中で眠っているのだろう。

「さて、そろそろ行かなくてはね。時間は待ってはくれないもの」

そう言って、満面の笑顔で東は抱き着いていた燈里の腕を離す。

「またね!」

数歩離れ大きく手を振ると東の面の姿は柔らかな風と共に揺らぎ、霞んで見えなくなってしまった。
風が燈里の髪を揺らし、外へと駆け抜けていく。途端に静かになった居間で、冬玄が疲れたように溜息を吐いた。

「ようやくいなくなったか。最後まで煩いやつだった」
「そんなこと言わないの」

側に来て抱きしめる冬玄を窘め、燈里は息を吐く。
東の面の騒々しさを嫌っているような態度を見せながらも、その実ただ冬玄は燈里を取られてしまうのが嫌なのだ。以前楓《かえで》に言われたことを思い出し、頬を軽く染めながら燈里は冬玄の背に腕を回す。

「燈里」

愛おしげな囁き。目を細め、冬玄は燈里の頬を包み目を合わせた。
顔が近づく。燈里は静かに目を閉じ、唇が触れ合う。
その瞬間。

「そこから先は、お子様がいない時とか、寝た後にやってくれないかな」

呆れた楓の声に、燈里と冬玄は反射的に距離を取った。

「か、楓っ!?」
「わたしもいるけど?」
「睦月《むつき》!」

学校帰りなのだろう。睦月がどこか不機嫌そうにただいまと声をかける。固まる二人を一瞥し、足音荒く二階へと上がっていってしまった。

「ただでさえ、子供に聞かせたくない底辺の言い争いをしている奴らがいて足止めを食らってたっていうのに、そのまま二人の世界を作らないでほしいな。時と場所を考えてくれるかい?」
「別に……気にしなきゃいいだろうが」

眉を寄せ呟いた冬玄を、楓は目を細めて見つめる。そのまま燈里へと視線を向け、態とらしく小首を傾げ笑ってみせた。

「燈里はいいの?睦月に見られても、本当に気にしない?」
「――っ!」

一瞬で燈里の顔が真っ赤に染まる。睦月に見られた後の気まずさを想像しただけで、声にならない悲鳴を上げた。

「時と場所を考えようね」

繰り返されて、燈里は涙目になりながらも頷いた。八つ当たり気味に冬玄を睨み、居間を出ていく。
階段を駆け上がる足音を聞きながら、楓は呆れたように溜息を吐いた。

「確かに暦の上では春が来ているけどさ。ちょっと気が緩みすぎているんじゃないかい」

何も言えずに冬玄は視線を逸らす。
偶然見た窓の外は、雪の白が木々や大地を染めている。

立春は過ぎたが、春はまだ遠い。春告げ鳥は鳴かず、目覚めには至らない。

消える直前の、小さく丸まった西の面の背を思い出しながら、冬玄は無意識に右の薬指に嵌るリングに触れていた。



20260212 『伝えたい』

2/13/2026, 4:10:07 PM