昼間より更に静まりかえった研究室に残っているのは、私だけだった。
培養皿を顕微鏡のステージに置き、レンズを下ろす。視界はぼやけた灰色からゆっくりと透明な宇宙へ変わっていった。そこへ、震えるように、しかし確かに動いている単細胞生物の姿が現れる。
たった一つの細胞でできた命。
私は記録用のノートを開きながら、ふと思った。
この小さな存在に、名前はない。
番号だけがある。
ピントを微調整し、像をハッキリさせる。
その瞬間、彼らは“点”ではなくなった。
動きに癖がある。
壁際を好む個体。
ゆっくり回転する個体。
私は無意識に、それを「彼」と呼んでいた。
今日の実験は、薬剤の反応を見ることだった。スポイトの先から、透明な液体を一滴。
顕微鏡の中の世界が揺れる。
数秒後、彼らの動きが鈍くなる。
震えが止まる。
一つ、また一つ。
私は記録を取る。
時刻、濃度、変化。
指先は正確だった。
ほんの少しの躊躇いなど、日々の繰り返しの前では無意味だ。
感情は、記録欄に入らない。
最後の一匹が、ふらりと回転した。
彼は壁に触れ、離れ、また触れた。
まるで出口を探すように。
そして、止まった。
私はレンズから目を離す。
視界が急に広がる。
蛍光灯の白さが、やけに強い。
ただの実験だ。
研究とは、そういうものだ。
でもさっきまで確かに動いていたものが、今は静止している。私の行いによって。
私は神様ではない。
それでも、レンズの向こうで止まった小さな命は、私の中で、少しだけ重い。
顕微鏡の電源を落とす。レンズを外した瞬間、世界はまた、何もなかったふりをした。
『小さな命』
2/25/2026, 3:00:21 AM