昼間より更に静まりかえった研究室に残っているのは、私だけだった。
培養皿を顕微鏡のステージに置き、レンズを下ろす。視界はぼやけた灰色からゆっくりと透明な宇宙へ変わっていった。そこへ、震えるように、しかし確かに動いている単細胞生物の姿が現れる。
たった一つの細胞でできた命。
私は記録用のノートを開きながら、ふと思った。
この小さな存在に、名前はない。
番号だけがある。
ピントを微調整し、像をハッキリさせる。
その瞬間、彼らは“点”ではなくなった。
動きに癖がある。
壁際を好む個体。
ゆっくり回転する個体。
私は無意識に、それを「彼」と呼んでいた。
今日の実験は、薬剤の反応を見ることだった。スポイトの先から、透明な液体を一滴。
顕微鏡の中の世界が揺れる。
数秒後、彼らの動きが鈍くなる。
震えが止まる。
一つ、また一つ。
私は記録を取る。
時刻、濃度、変化。
指先は正確だった。
ほんの少しの躊躇いなど、日々の繰り返しの前では無意味だ。
感情は、記録欄に入らない。
最後の一匹が、ふらりと回転した。
彼は壁に触れ、離れ、また触れた。
まるで出口を探すように。
そして、止まった。
私はレンズから目を離す。
視界が急に広がる。
蛍光灯の白さが、やけに強い。
ただの実験だ。
研究とは、そういうものだ。
でもさっきまで確かに動いていたものが、今は静止している。私の行いによって。
私は神様ではない。
それでも、レンズの向こうで止まった小さな命は、私の中で、少しだけ重い。
顕微鏡の電源を落とす。レンズを外した瞬間、世界はまた、何もなかったふりをした。
『小さな命』
私たちは恋人じゃない。
同じクラスで、席が前後で、放課後になるとくだらない話を送り合う。ただそれだけだ。テスト前には通話をして、文化祭では一緒に段ボールを運んだ。名前のない関係。でも、それでよかった。だって居心地が良い。向こうだってそうに違いないハズ。
LINEの最後には、いつも軽く「luv u笑」とつく。これは冗談の合図。深くならないための約束みたいなもの。
でも、私から最初に送ったときは緊張したな。この合図は、一生懸命考えたんだ。
だって壊れたら困る。毎日同じ教室にいるのだから。それに、もう話も出来なくなる可能性があるなんて、考えたくもなかった。
その夜、彼から珍しく弱いメッセージが届いた。
「今日ちょっときついわ」
私は何度も打っては消す。
「大丈夫?」も「がんばれ」もしっくりこない。
指が止まる。
心臓が、時が来たのを教えてくれる。
いつもの「luv u」を消す。
代わりに、ゆっくり打つ。
「Love you」
送信した瞬間、既読がつく。
心臓の音だけがうるさい。自分が熱いのか冷えていってるのか分かんない。
しばらくして届いた返信は、短い一行だった。
「俺も」
翌朝、教室で目が合う。ほんの数秒間、緊張。でもそれがなんだかおかしくて二人で笑った。親密な空気が、ちょっと照れくさいけどめちゃくちゃ嬉しい。
私たちは壊れなかった。むしろ、昨日より少しだけ近い。
『Love you』
人間は無いものねだりだというけれど、私は太陽のような存在感が欲しいと思っている。それは学生の頃からずっとだ。
同じ部署の彼女は、いつも明るい。失敗しても笑い、誰かが落ち込んでいれば、何も言わず隣に立つ。窓から差す朝日みたいに、そこにいるだけで空気がやわらぐ。
私はその光を、少し離れた席から浴びている。
ある朝、始業前の給湯室で彼女が小さく息をつくのを聞いた。デスクに向かって歩いてくる顔は、ほんの少し雲がかかっているようで、いつもより光が薄い。
太陽にも昇る前の暗さがあるものだと、大人になってやっと気が付いた。
その日、私は初めて自分から挨拶をした。
「おはようございます」
私を見て、彼女はやわらかく笑った。
太陽のようにはなれないかもしれない。それでも、誰かにほんの小さな光を足せる人にはなりたい。
『太陽のような』
アカウントを削除した瞬間、画面は真っ白になった。
私の全てだったフォロワー数6,394の数字は、驚くほど軽く消えた。
私は0になった。
新しいアカウントを作る。フォロワーは0。投稿も0。プロフィールには名前だけを書く。余計な肩書きはつけない。
最初の配信は、夜の台所だった。母がきっと壊してしまったのだろう、白い破片が床に散らばっていた。
コンロの青い火と、湯の沸く音。私は黙ってスープを作る。誰もコメントしない。視聴者数は0のまま動かない。それでも、胸は不思議と静かだった。
台本も、演出も、泣き声も、壊れた食器もいらない。新しい今だけの私がここにいる。
画面の隅に、小さく数字が変わる。
「1人が視聴中」
コメントはない。ただ、誰かがそこにいる。
0からの私は少し緊張して「はじめまして」と言った。
『0からの』
涙は、練習すれば出せる。
まばたきを減らし、息を浅くして、可哀想なドラマの主人公の気持ちになりきる。
カメラの向こうでは「こんなに大変なのに強いね」「泣かないで」と優しい文字が流れ、同情は数字になって積み上がる。
私はその数字で出来ていた。
今夜も、父が帰ってこない。メッセージには既読もつかない。別の部屋では母がなにか大きな音を立てている。
台本はないのに、配信ボタンを押してしまう。画面に映る自分は、思ったより醜い顔で泣いていた。声が震えて、うまく喋れない。
コメントはすぐに流れた。「今日リアルだね」「設定強化?」「ちょっと暗いよ」。視聴者数が、静かに減っていく。
私が減っていく。
私はようやく知る。みんなが優しかったのは、私のためじゃない。泣ける物語のためだったのだ。
配信を切ると、部屋はただの夜に戻る。通知は鳴らない。布団の中で声を殺したとき、初めて本当の涙の味がした。
私はみんなの中からいなくなった。
『同情』