sairo

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くしゅん。
小さなくしゃみと共に、毛が逆立った。

「そろそろ寒くなってきたからね」

くすくすと彼女は笑いながら、四本の尾で体を包んでくれる。
暖かい。逆立つ毛を丁寧に毛繕いしてくれる神使の姿の彼女は、白くてきらきらしていて、とても綺麗だった。

「さて、今度はどんな物語が聞きたい?それとも遊びに行こうか」

柔らかな彼女の声と、毛繕いの気持ち良さに目が細まる。
次は何をしようか。そう考えて、ふと気になっていたことが口から溢れ落ちた。

「神使のことについて知りたいな」

神使とは、ただの役割だと彼女は言った。お役目を持って長くを生きた狐。それが自分なのだと。

「そうだねぇ。神様のお使いがほとんどかな。人間からのお願い事は、私は専門外だったし」

聞きたい?そう聞かれて頷いた。
彼女のことが知りたい。秘密を知って前よりも仲良くなれて、なのにさらにもっとと欲しくなる。
我が儘だろうか。そう思うが、彼女の尾が優しく背を撫でて、思わず甘えて擦り寄った。

「じゃあ、特別に教えてあげる。昔々――」

そう言って物語を語るように、彼女はゆっくりと語り出した。





ある所に、一匹の狐がおりました。
狐に親はなく、他の狐と群れもせず、常に一人でおりました。他の狐よりも長くを生き、悠久の果てに神に仕える神使となっておりました。

狐は神使として、数多の生きとし生けるものに神の言葉を届けました。
神の言葉に従い、雨風を操ることもありました。

そうしていつしか、狐は望みを持ちました。
それは、とても小さくて些細な望みでした。
それは、誰にも応える事が叶わぬ望みでもありました。
誰にも告げられぬ想いを抱え、狐は虚ろに神使として在り続けました。

そんな狐を哀れんだのでしょうか。
ある日、神は狐に一つのお役目を与えました。

――この地を離れ、旅に出なさい。

新しいお役目に、狐は目を瞬いて。
それはそれは幸せそうに、ゆうるりと微笑みを浮かべて礼をしました。


そうして狐は当てのない旅に出ます。
神から頂いた、小さな灯り一つを持って。
狐の抱いた、望みに応えてくれるものを探して。

人間に紛れ、命の始まりから終わりまでを寄り添いました。
人間の望みに応え目覚めた妖と、言葉を交わすこともありました。

様々な場所に赴き命を見つめ、思いを聞き、そして数多を知りました。
けれどもどれだけ旅を続けても、狐の望みに応える存在は現れることはありませんでした。

狐は常に、ひとりきり。
これからもずっと、それは変わらぬものなのだと、狐は諦めかけてしまっておりました。





「諦めちゃったの?その望みって何?わたしじゃ応えられないの?」
「落ち着いて。話の途中だよ」

彼女の尾が背を撫でる。焦る気持ちが少しずつ落ち着いて、ほぅと小さく吐息が溢れた。
彼女を見つめる。金の瞳はとても静かで、彼女が何を思っているのかは分からない。
悲しんでいるのだろうか。それとも、悲しむこともできないくらいに、気持ちが沈んでしまっているのだろうか。
彼女の望みを考えてみる。ささやかで、それでいて誰にも叶えられないようなもの。
いくら考えても少しも思いつかず、彼女の役に立てないのだと、力なく耳を垂らした。

「話、続けてもいい?」

優しく囁く彼女の声に、返事の代わりに小さく尾を揺らす。
聞きたいと言ったのはわたしなのだから、最後まで聞かなくては。そう心の中で気持ちを切り替える。

「聞かせて」

彼女を見つめ願えば、静かな声が続きを語り始めた。





ある日。人間に紛れ、狐が学校に通っていた時のことでした。
一人の少女が狐に近づき、あどけない笑顔でこう言いました。

――ねぇ!わたしと友達になろうよ!

それは初めてのことでした。人間に紛れていたとしても、狐に近づく者は誰もおりませんでした。
狐は戸惑いに目を瞬き、そして少女から伸びる獣の影を見て得心が行きました。同じ獣同士。人間と群れるよりも、居心地が良いのだろうと。
しかし少女と友達となり、その関係が親友に変わってからも、少女が狐の正体に気づく様子はありませんでした。
無邪気に笑い、時に何かを悩み、戸惑いなく近づき触れる。
そのすべてが狐にとって初めてで、何よりも大切なものになっていきました。
それは少女が自分の正体を明かし、秘密の約束を交わした瞬間から、狐の望みを叶える期待となりました。

狐の望み。
小さくて些細な、けれども誰にも応えることが叶わぬと思われたもの。
少女と出会い、同じ時を過ごし、約束を交わして。


そしてようやく、その望みは応えられたのです。





「望みが叶い、狐の長い旅は終わりを迎えましたとさ。めでたしめでたし、ってね」
「え?望み……叶ったの?」

今の話のどこで望みが叶ったのだろうか。彼女を見つめるが、ゆるりと尾を振るだけ。
首を傾げて話の内容を思い返すも、よく分からない。ただ、彼女の話に出てきた少女がわたしのことだと察して、次第に落ち着かなくなってくる。
一緒にいることが大切だと言ってもらえた。そのことがとても嬉しくて、気恥ずかしい。
じっとしていられなくて、彼女から離れその場をぐるぐると回り出す。

「常盤《ときわ》」

静かな声に呼ばれて立ち止まる。彼女を見れば小首を傾げ、誘うようにゆるりと尾を揺らされた。

「おいで、常盤。側にいてよ」

大切な親友にそう言われてしまえば、離れる訳にはいかない。気恥ずかしさは残るものの、それを振り切るように彼女の元へ飛び込んだ。
暖かな尾に包まれる。優しく、けれどどこかしがみつくような力強さに、ふと思いついたことを口にした。

「ずっと寂しかったの?」

小さな呟きに、彼女は目を見張り、そして柔らかく細めた。甘えるように擦り寄られて、驚きに尾が揺れた。

「そうだよ。ずっとね、誰かとこうして寄り添ってみたかった。神使じゃなくてただの狐として、遊んだり、笑い合ったりしてみたかった」

どこか切ない声音。何も言えずに彼女を見つめれば、揺らぐ金の目と交わった。
寂しさが浮かぶ目だ。きっとまだ足りないのだろうと、彼女の目を見たまま問いかける。

「どうしたら寂しいのが全部なくなるの?」

小さく息を呑んで、彼女は迷うように視線を揺らした。
金色が、少しだけ色を落としてゆっくりと瞬く。少しして呟かれた言葉は、どこか不安に掠れていた。

「名前を呼んでほしい、かな」

意外な言葉に目を瞬いた。
それだけでいいのだろうか。そうは思うが、彼女が望むのならば叶えるべきだと、息を吸い込む。

「えっと……久遠《くおん》?」
「もっと」
「久遠」

もっと、と願われる度に名前を呼ぶ。その度に彼女の尾が揺れて、金の目がきらきらと煌めいた。
何だか気恥ずかしい。そんな気持ちはすぐになくなり、ただ嬉しくて仕方ない。
ふふ、と笑って彼女の名を呼ぶ。同じように名を呼び返してくれることが、とても幸せだった。

「ねぇ、久遠」
「何?常盤」

ふと思いついて、彼女を見る。
優しい眼差しに、願うように尾を揺らす。

「さっきのお話。めでたしめでたしで終わらせないでほしいの」
「どういうこと?」
「久遠の旅は終わったって言うけど、二人で一緒にいるのはまだ先があるでしょ。だからおしまいじゃなくて、続くにしてよ」

一人で続けた物語を、二人で紡ぐ物語にしてほしい。
わたしの思いを汲み取って、彼女が楽しげに笑った。

「じゃあ、次は常盤が話して。私と出会う前の常盤の話が聞きたい」
「そんなに話すことはないんだけど」
「それでもいいから。二人の物語にするなら、私と常盤の話を重ねないとね」

それもそうかと思いながら、記憶を巡らせる。

「本当に、話すことなんてほとんどないんだけどな」

小さく愚痴りながらも、ゆっくりと語り出す。

彼女とわたしの物語を重ねて、二人の新しい物語を紡ぐために。



20251130 『君と紡ぐ物語』

12/2/2025, 9:49:58 AM