―お気に入り―
「お気に入り」は、
誰にも見せない場所に置いておきたくなる。
机の引き出しの奥とか。
本棚の手を伸ばさないと届かない段とか。
誰にも触られない位置。
触られていない、
という状態を、
できるだけ長く保てる場所。
誰かに見せた瞬間、
それはもう、
少しだけ、
汚れる気がする。
褒められても。
羨ましがられても。
興味を持たれても。
その全部が、
少しずつ、
表面を削っていく。
私は、
お気に入りのペンを、
いつも筆箱の端に入れている。
触れると、
わずかに冷たい。
でも、
握っていると、
すぐに、
自分の温度に染まる。
それが、
少しだけ、
安心する。
一番書きやすいのに、
一番使わない。
ノートを開くたび、
紙の乾いた匂いがする。
インクを出してしまえば、
もう戻れない気がするから。
減っていくものは、
必ず、
終わる。
新品のまま、
ずっと、
「好きなまま」でいてほしい。
変わらない状態で、
止まっていてほしい。
人も、
少し似ている。
一番、
大事に思っている人ほど。
私は、
近づきすぎない。
距離を測る。
一歩。
半歩。
それ以上は、
壊れる。
近づきすぎると、
呼吸の温度が、
分かってしまうから。
それを覚えたら、
もう、
忘れられなくなるから。
だから私は、
お気に入りの人にほど、
何も言えない。
「好き」も。
「大事」も。
言った瞬間、
私のものじゃなくなる。
今みたいに、
ただ、
隣にいられる時間が。
触れていないのに、
存在だけが、
すぐ隣にある時間が。
それが、
一番長く残る気がして。
お気に入りは、
使わないほうが、
長持ちする。
でも。
使わなかったものは、
最初から、
持っていなかったのと、
同じかもしれない。
触れていない温度は、
最初から、
存在していなかったのと、
同じかもしれない。
それでも私は、
今日も。
お気に入りのペンを、
筆箱の端に戻す。
閉じ込めるみたいに。
インクが減らないことに、
安心する。
誰にも使われていないことに、
安心する。
誰にも、
知られていないことに、
安心する。
一度も、
ちゃんと使っていないことに。
少しだけ、
胸の奥が、
ざらつく。
削れたみたいに。
それでも。
私はきっと、
一生、
これを使わない。
なくしたくないから。
なくしたくないものだけを、
ずっと、
触らないままにして。
題名:【非公開】
2/17/2026, 12:09:53 PM