初心者太郎

Open App

—夢の残響—

社員が来る前の早朝、俺は清掃員用の更衣室で作業着に着替える。清掃道具が入ったカートを運びながら、各フロアを上から掃除していく。

今朝は、今年一寒い。そのせいか、トイレの鏡は凍っていた。

「おはようございます!」

鏡を拭いていると、鏡の奥で誰かがお辞儀している姿が見えた。振り返ると若い男が立っていた。

「新人の佐藤です!今日からよろしくお願いします!」
「あぁ、よろしく」

また新人か、と心の中で呟いた。
最近の若い者はすぐに音を上げ、いなくなってしまう。今月の初めに一人、別の新人が入ってきたが、もういない。

「ここをこうするんだ」
「わかりました!」彼はメモをとった。

こうやって新人に仕事を教えても、時間の無駄だと俺は思う。
だが、この男は今までの奴と少し違うような気がした。元気で熱い男だ。なよなよした陰気くさい感じではない。

「教えることは以上だ。何かわからないことがあったら言ってくれ」
「はい!」
「……君は、すぐに辞めないでくれよ」鏡を拭きながら、ボソッと口に出してしまった。

正直、この時間にうんざりしていた。
教える時間があるなら、その間に自分の仕事を進めたい。

「いえ、俺はすぐに辞めます!」
「え……?」

彼は、そう宣言をした。
こんな奴は今まで見たことがない。大抵は「頑張ります」とか言うだろう。

「俺にはお笑い芸人になるという夢があるんです!近いうちに必ず有名になります!だからすぐに辞めます!」

彼の目は、キラキラと輝いていた。

「そうか、頑張れよ」
「失礼します!」

自分が昔、ミュージシャンを目指していたことを思い出した。中途半端で、将来に対していつも不安で、逃げ出してしまった自分を。
それに比べてこの男はどうだ?
必ず売れるという気概を持っている。

彼は、将来すごいやつになるんじゃないか。いや、そうであってほしいと俺は思う。

彼が去った後、もう一度鏡を拭いた。
そこには、昔より老けた、夢をしまい込んだ自分が映っていた。

お題:凍てつく鏡

12/28/2025, 2:07:50 AM