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お題『溢れる気持ち』

 七海建人は、自分がこんなにも胸に感情を溜める人間だとは思っていなかった。
 仕事では常に理性的で、感情は効率を下げるノイズのように扱ってきたはずなのに――猪野琢真と恋人になってから、その前提が静かに崩れていた。

「七海サン、無理してませんか」
 そう言って覗き込んでくる彼の目は、年相応の真っ直ぐさで満ちていた。七海は少しだけ視線を逸らし、眼鏡を押し上げる。
「いえ。お気遣いありがとうございます。ただ……君がいると、少々調子が狂うだけです」
 言葉にすれば冗談めいているのに、本心は胸の奥で波打っていた。猪野は年下で、勢いがあって、感情表現も素直だ。その全部が、七海の中に溜め込んできた何かを揺さぶってくる。
「それ、悪い意味じゃないっすよね」
 不安と期待が混じった声。七海はその表情に、どうしようもなく愛おしさを覚えた。
「……ええ。むしろ逆です。私は君の前では、感情の制御が甘くなる」
 自覚した瞬間、胸が熱を持つ。溢れそうな気持ちを理性で堰き止めるのはもう難しい。
 猪野がそっと手を伸ばし、七海の指先に触れた。その温度だけで、胸の奥に溜まっていた想いが静かに決壊する。
「七海サンのそういうとこ、好きです」
 その一言で、七海の中の感情はもう隠せなかった。
「……困りますね。本当に」
 そう言いながら指を絡め返す自分がいる。溢れる気持ちは抑えるものではなく、表に出していいものなのだと――今は、素直にそう思えた。

2/15/2026, 11:47:40 AM