自分は今、存在しているのだろうか――と、ふとした時に思う。
夜、布団に入ったとき。人の往来がある街中を歩いているとき。誰かと同じ空間にいるとき。
はたまた、相手と話している最中でも、相手には私が見えているんだろうかと、疑う。心配になる。そういう時がある。
なぜかそう思ってしまって、その不安が大きくなって、自分でさえも、私はちゃんと存在してるのかと胸が苦しくなる夜がある。
自分は存在しているのか不安になるという、とあるお悩み相談を見て、私もすごく共感した。
その解答者の人は、結論として、存在していると仰ってました。たったひと言がものすごく安心したことを覚えてる。
すごく優しい哲学ですね、とも。
その話を聞いて、自分でも考えてみた。
誰かの言葉も、とても心強くて安心するのだけど、頭で理解していても、心は納得していないような時がある。どれだけ丹念に説明されても、‘’分かった気になっている”。そういう状態が、一番不安定で脆くて、ちょっとつつかれただけでまた同じところに戻ってくる。そういうループ。
自分が存在しているのか不安になるっていう、壮大なテーマ以外でも、生きているといろんな感情が心に浮かび上がってくる。
不安もそうだし、恐れも、苦しみも、嘆きも……いろいろ。
そういうとき、ふと思った。
この感情は、私が存在していないと感じないものなのだから、逆説的に私はちゃんとここにいるってことなのではないかと、ぼーっとした頭に浮かんできた。
あたりまえのこと言ってるかもしれないけれど、世紀の大発見のような喜びがあった。喜び、というほど仰々しいものではないかもしれませんが。
自分の中で自分の探していた答えが一致したみたい。なあんだ、そうなの?って、涙が出た。
たったそれだけの出来事だけど、自分をたしかめられるって、私にとってはものすごく安心することだった。
痛みを感じることが存在証明なのは、少し皮肉っぽいし、だからといって不安が消えることはないし、辛いことも辛いまま変わらないです。
それでも、ほんの少しだけ慰めの言葉があっていいとするならば、この身体があるからこそ感じられる、喜び。
たとえ、胸を突き刺すような痛みであったとしても――それを前向きに受け入れるのは難しいけれど――感じられる心があって良かったと、不安の横に添えてあげたい。
2/15/2026, 3:12:40 PM