東雲陽

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0からの

 「はじめまして」
ひどく不思議そうにこちらを見る君に僕はできるだけ明るい声でそう言った。
 「こんにちは。今日からあなたの話し相手になりました、鈴木です」
すずき、と君の唇が小さく動くのを確認してから、僕は他愛のない雑談を始めた。来る途中にカラスがゴミを漁っていたこと。塀の上でくつろぐ猫。お気に入りのマグカップを割ってしまったこと。それから──大好きだった人の話。
 次から次へすらすらと話を展開してやれば、君は小さなひなたのようにくふふと笑った。そうして日が傾く頃には必ず
 「明日も会える?」
 と僕に言い、僕は
 「もちろん」
 と答えてやるのだ。

田中、佐藤、齋藤、清水、佐々木。今日は鈴木にした。明日は──
白い引き戸を閉めて無機質な廊下を歩きながら考える。青木がまだだったな、と思いついたところで
 「あら、今日も来てたの」
 と声をかけられた。
 「毎度ご苦労さま。偉いわね」
 白衣を着た女性が無理をしないでねと言い残して廊下へ消えていく。ふと、自分は何をやっているんだろうかと考えた。
毎週代わり映えのしない病室を訪れて同じ話をする。彼女が記憶を保持できなくなってから始めたこの習慣は気づけばひと月がたっている。毎回「はじめまして」の0から関係を構築して「また話そうね」と別れている。この行為に何の意味があるのだろう──
 それでも。
 彼女が僕を思い出すまで、もう一度名前を呼ばれるまで、僕は0からの関係構築を続けていく。

2/21/2026, 11:26:43 AM