Love you
「Love you」は好きではない。
白いレポート用紙に書いた1行を2重線で消した。
「月が綺麗ですね」は伝えるのに段階がいる。
『味噌汁を作ってください』 ……古い。
『星が降っても別れない』
『イバラの道はおぶって通る』
──告白に負の感情をのせてどうする。
真っ直ぐな線が何本も引かれていく。違う、しっくりこない、気にいらない。書いては消した言葉が連なって100枚目に突入した時、耐えきれずに筆を手放した。
***
汚れていたレポート用紙はいつの間にか白紙で、破り捨てた分だけ薄くなった。シャープペンシルを握り、薄い筆跡でもう一度書き連ねる。
『そういうの好きだよ』
『大好きすぎるなさすがに』
『ウワーあたりまえに好き、ありがとう』
──近頃の「好き」はどこまでも軽い。どうにも嫌気がさして、その勢いで丸めて捨てた。
***
時折1文字書いては捨ててきた紙は、気づけばあと数ページになっていた。薄い筆跡はどこにも残らず、長く滲んでいたインクの染みもいつの間にか見えなくなっている。Love youという単語が薄れていく。
──あの2単語を「好き」以外で訳したい。
レポート箋が薄くなる度、その思いも褪せていく。訳文がなおざりになっていく。
『知らねぇよ』
投げやりに訳した文を書き殴り、最後のページを破り捨てた。二度と書くつもりもなかった。新しい用紙は無駄だとさえ思った。
***
──『ねぇ、この手を握り返してくれる?』
ふとした折に目に触れたそれは、どこまでも臆病な訳文だった。そして、同時に人らしさに溢れていた。書いた人を知りたいとさえ思った。
──『返事は、いらないから』
続く文に初めて反抗を覚えた。そこまで言うなら返してやろうじゃないか、とゴミ箱を抱えた。
***
どうせなら、と床に捨てたままだった万年筆を手に取って、せっかくなら、と少し良い紙を誂える。ペン先はまだ完全に乾いていない。
今度こそ、Love you の正解を見つけてやろう。いつか立てた目標を記憶のそこから引っ張り出して、万年筆を握り直す。
そうして今のところ答えられる精一杯の訳文を真新しい紙に書き記した。
──他愛のない、取るに足りない話を、
私は他ならぬあなたにお話したいのです。
太陽のような
「……っ!」
目を開けると、ぐわりと世界が近づいてここが布団の上だと気づいた。直前の浮遊感がまだ抜けず、心臓がうるさい音を立てている。ひとつ、ふたつと意識的な呼吸を繰り返し、それからやっと手を動かした。胸元にかかった厚めの布団は、確か昨日寒いからとひっぱりだした冬物だ。重かったかな、とぼんやり考えながら枕元の携帯を引き寄せる。7時半。街が忙しなく目覚め出す時刻だ。溜息をつきつつ、見るともなしにSNSを開いた。電車が遅延してるだとか、あと2日頑張れば3連休だとか、日々を正しく生きる人達の呟きをスワイプして消費していく。眠りに落ちたのは今朝方5時。起きられるはずもない。
ありきたりな朝の風景と人々の呟きに飽きて携帯を投げ出そうとした時、ぽん、と軽い音が着信を告げた。
『おはよ!起きてる?』
いつも通りの言葉にふ、と気が緩む。
『今起きたとこ』
寝転がったままたぷたぷと返事を打てば、いつも通りの朝を送る相手がまたメッセージを返してくる。
『今日いい天気だよ!』
『そうなんだ』
『そう。公園に行きたいくらい!』
『いいね』
単調な返事にも飽きず、細切れに言葉が交わされる。しばらく他愛のない会話をしたのち、この時間を終わらせる言葉が飛んできた。
『いってきます〜!』
いってらっしゃい、という言葉に既読はつかなかった。きっと本当に直前に送ってくれたのだろう。しばらく画面を見て、それからゆっくりと起き上がった。公園に行きたいくらいいい天気だと言われたことを思い出して、カーテンを開ける。階下に広がる街は忙しなく朝を作り上げていて、否応なく1日の始まりを自覚する。
──いってらっしゃい。
柔らかな日差しに目を細めながら、どこかで頑張る小さな太陽に向けて呟いた。太陽が登りきるまであと少し、忙しない朝が広がっていく。
0からの
「はじめまして」
ひどく不思議そうにこちらを見る君に僕はできるだけ明るい声でそう言った。
「こんにちは。今日からあなたの話し相手になりました、鈴木です」
すずき、と君の唇が小さく動くのを確認してから、僕は他愛のない雑談を始めた。来る途中にカラスがゴミを漁っていたこと。塀の上でくつろぐ猫。お気に入りのマグカップを割ってしまったこと。それから──大好きだった人の話。
次から次へすらすらと話を展開してやれば、君は小さなひなたのようにくふふと笑った。そうして日が傾く頃には必ず
「明日も会える?」
と僕に言い、僕は
「もちろん」
と答えてやるのだ。
田中、佐藤、齋藤、清水、佐々木。今日は鈴木にした。明日は──
白い引き戸を閉めて無機質な廊下を歩きながら考える。青木がまだだったな、と思いついたところで
「あら、今日も来てたの」
と声をかけられた。
「毎度ご苦労さま。偉いわね」
白衣を着た女性が無理をしないでねと言い残して廊下へ消えていく。ふと、自分は何をやっているんだろうかと考えた。
毎週代わり映えのしない病室を訪れて同じ話をする。彼女が記憶を保持できなくなってから始めたこの習慣は気づけばひと月がたっている。毎回「はじめまして」の0から関係を構築して「また話そうね」と別れている。この行為に何の意味があるのだろう──
それでも。
彼女が僕を思い出すまで、もう一度名前を呼ばれるまで、僕は0からの関係構築を続けていく。
どこにも書けないこと
好きだよってこと。
もう少しだけ早く出会えたらなって後悔。
墓場まで持っていくから、想うことは許してね。
あなたに届けたい
溢れ落ちる言葉を必死に拾い集めた。文節も文法も無視して並べ立てたそれは不格好で、到底どこかに出せるものではなかった。
指先から逃げる音をどうにか積み上げた。拍に押し込めたそれは窮屈そうにひしめきあって不協和音を奏でた。
精査して、組み直して、推敲して、調律して、書いて、消して、弾いて、止まって、奏でて、採譜して、編集して、書いて描いてかいてかいてかいてかいてかいてかいてかいてかいて──
──消した。
「好き」、というたった二文字がどうしても紡げなかった。
クシャクシャになった紙は、今もまだ机の引き出しに隠してある。