結城斗永

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タイトル『記憶の仕立て屋』

 石畳の路地裏、街灯の光も届かないような場所にある小さな店。ここで僕は、時間の繋がりがほつれてしまった記憶の断片を、特別なリボンで繋ぎ合わせる『記憶の仕立て屋』をしている。

「失礼するよ」
 カウベルの乾いた音と共に、一人の老紳士が店に入ってくる。僕は作業台から顔を上げ、彼を出迎えた。
 老紳士の名はエド。彼はここのところ、週に一度はこの店を訪れている。

 エドは、ゆっくりとした手つきで、テーブルの上にいくつかの『光の欠片』を置いた。それは、ビー玉ほどの大きさで、淡い光を放つ記憶の断片だ。
「今日は、これをお願いしたくてね。……最初の形が分からなくなってしまった」
 僕はその欠片を拾い上げ、ルーペで覗き込む。
「先月修繕した箇所のようですが、リボンの劣化が随分と早いですね」
「今朝は妻の名前を思い出すのに、三十分もかかってしまった。いまでは今朝の食事すら思い出せん……」
 エドは自嘲気味に微笑んだ。

 記憶の断片を綴じ合わせるために使うのは、特殊な『時の糸』で織られたリボン。時間の繋がりを失った記憶を結んで、一連の物語として心に定着させるのが僕の手腕の見せ所だ。
 僕は引き出しを探って、一本のリボンを選び出す。
「前回より分厚いリボンを使ってみましょう。これで、結婚式の日と、娘さんが生まれた日の記憶はより強く結びつくはずです」

 僕は指先に意識を集中し、リボンの端を記憶の欠片の裂け目に通して縫い合わせていく。リボンが通るたび、店の中に柔らかな香りが漂った。しっとりと地面を濡らす雨、教会の庭に咲く花、赤ん坊の産着の匂い。
 エドの瞳に、わずかな輝きが戻っていく。
「妻は長らく子を授からなくてね。それでも二人で祈り続けたのさ。娘の誕生日はとても穏やかな日でね……」
 記憶が結ばれるたび、エドの語り口は滑らかになっていく。

 しかし、作業の終盤、思わず手が止まった。
 最後の一つ、エドが「最も大切だ」と言っていた、妻との最後の旅行の記憶を繋ぐためのリボンが、どうしても足りないのだ。
「おかしいな。計算では足りるはずだったのですが……」
 僕は困惑した。記憶の損傷が予想以上に激しく、リボンを使いすぎてしまったのだ。棚を探しても、エドの記憶に馴染むような、深い愛情と哀しみを含んだリボンはもう残っていない。
 リボンで繋がれなければ、この記憶は明日には消えてしまう。それはエドにとって、妻が最後に残した微笑みを失うことを意味していた。

「リボンがないのかい?」
 エドが静かに尋ねた。僕は唇を噛み、頷いた。
「申し訳ありません。私の手落ちです。他のリボンでは、あなたの記憶を傷つけてしまう……」
 エドは少しの間、考えるように黙り込むと、やがてコートのポケットから何かを取り出した。
「……これを使ってくれないか」
 彼の手の中には、夕焼けを溶かしたような、優しいピンク色のリボンがあった。
「それは……?」
「妻が、若い頃に髪を結んでいたものだよ。彼女が亡くなった後、形見として持っていた。……これを糸にして、私の記憶を縫い止めてほしい」
 僕は息を呑んだ。『時の糸』で織られていないリボンを記憶の綴じ合わせに使うことは、仕立て屋としての禁忌に近かったからだ。
 物が持つ強い記憶や愛着が、持ち主の精神を飲み込んでしまう恐れがある。
「危険です。もし、あなたの意識がリボンに残った奥様の思念に引っ張られてしまったら……」
「構わないよ。彼女を忘れて生きるよりは、彼女の近くにいられる方が、私にとっての救いだ」
 エドの目は真剣だった。僕は覚悟を決め、そのシルクのリボンを細く裂き、針に通した。
 リボンが記憶の欠片を貫いた瞬間、店の中に、言葉にならないほどの愛おしさが溢れ出す。

 ――あなた。忘れてもいいのよ。私はいつもここにいるんですから。

 それはリボンに染み付いた『妻の想い』だった。僕の手の中で、二人の人生が、時を超えてひとつに結ばれていく。
 最後の一針を終え、リボンを固く結んだとき、店内を光が包み込んだ。

 しばらくして、しっかりと綴じられた記憶を胸に、寝息を立てるエドの表情は、ここ数ヶ月で最も安らかだった。その記憶の真ん中には、あのピンク色のリボンがしっかりと通っていた。
 目を覚ましたエドは不思議そうな顔をした。
「……おや。私は何をしていたのかな?」
 僕は微笑んで、静かに答える。
「大切な贈り物の包装を、やり直していたのですよ」
 エドは自らの胸元をしばらく見つめた後、思い出したように記憶を抱えて店を出ていった。彼は既にここに来た理由すら覚えていないかもしれない。でも、あの胸に抱えた妻の記憶だけは、決してほどけることはないだろう。

 人の記憶は儚く、そして重い。それでも人は、忘れるまいとして誰かのもとを訪れる。
 もしも手の中でほどけかけている記憶があれば、僕はそれに合うリボンを探して再びきつく結び直す。ただし、僕にできるのはそこまでだ。何を結び、何を手放すかは、いつも持ち主自身に委ねられている。

#時を結ぶリボン

12/21/2025, 1:39:53 AM