会う人は皆、彼を神と呼んだ。
決して容姿が優れているわけではなかった。美しいが地味で華のない顔立ちの男だ。背は170あるかないかぐらいで、穏やかに、静かに話す。人混みの中では簡単に掻き消されてしまいそうな声量なのに、その声は必ず鼓膜をピンポイントに撃つ。聞き逃すという行為が重罪に値するかのように、彼の声は不思議でどんなときであろうとその音波は脳に響く。
祈りを捧ぐ者の後ろ姿を見た。いつものことだ。
「救ってください」などと烏滸がましいことをよくも口に出せるなと思いつつ、決して私は口を挟まない。
捧ぐ者は跪いた。用意してきたのだろうか、幾度も聞かされ聞き飽きた長ったるい台詞を泣きを交えながらぺらぺらと話す。こんなもの常套句である。無意味である。
しかし彼はそうは言わない。絶対に否定をしない。彼を前にすると人は皆胎児のようになるのだ。なんとつまらないことか。
彼の食事の時間になると、私の労働が始まってしまう。“神”に跪く“信者”を呑み込む為の準備をしなくてはならないのだ。
というのも、完成された料理以外を目にしたくないなどと宣うので、仕方なく調理する必要がある。なんとも面倒な奴である。
誤魔化すように鼻歌を歌った。最近スーパーで流れていた曲だ。意味は分からないが、私は好きだ。歌いながら、やはり人間は愚かであると思った。
人間は神にはなれない。神になろうとする人間は愚かだ。だが、人間を信仰する人間はもっと愚かだ。
しかし祈りの果てが腹の中とは、笑ってしまう。やはり彼を前にすると人は胎児のようになるようで。
11/13/2025, 10:39:33 AM