人を“弱者”として眺めるとき、
そこには無意識の段差が生まれる。
見下ろす角度からこぼれるのが、同情だ。
それは悪意ではない。
けれど、「かわいそう」という評価を含んでいる。
一方で、
「あなたはいま、こういう局面に立っている」と
具体へ降りるとき、
そこに生まれるのは尊重だ。
尊重は、感情の洪水ではない。
むしろ静水だ。
「……それは、つらかったね」
その一文に、
分析も、比較も、自己投影もいらない。
“わかるよ”と急がない。
“気にしすぎ”と整形しない。
問い詰めもしない。
ただ、
話すなら聞く。
話さないならそばにいる。
同情は、きっと、優しさの初期衝動だ。
けれど、
そのまま外に出すと、相手の尊厳を削ることがある。
だから技術を持つ。
内側で変換する。
かわいそう
→ 何が起きたのだろう。
助けたい
→ この人は何を望んでいるのだろう。
私もつらい
→ いまは、あなたの時間だ。
それだけで、尊重は成立する。
痛みは共有しなくていい。
証明しなくていい。
継承しなくていい。
ただ、
「あなたの痛みは、あなたのものとして確かに存在している」
と扱われればいい。
もしその痛みを嘲笑う者がいるなら、
そのときは静かな怒りで線を引こう。
怒鳴らずともいい。
軽蔑せずともいい。
ただ、
“それは越えてはいけない領域だ”
と示せばいい。
同情は衝動。
尊重は選択。
私は、同情を尊重に変えたい。
題 同情
2/20/2026, 12:34:24 PM