ぽとりと紅の花が落ちた。
美しかった花は落ちた瞬間に腐り、褪せた花びらを地面に散らしていく。
酷く醜い。咲き誇っていた花を愛でていたことも忘れて、顔を顰めた。
目を逸らして、咲き始めの花に視線を向ける。
これから美しく咲くであろう花。だがやがては地に落ちて、腐っていくのだろう。
また一つ花が落ちる。
咄嗟に手を伸ばした。手の中で花びらを散らすが、腐る様子はない。
地に視線を落としても、そこに落ちた花は一輪もなかった。
「どうして」
何故かそれが悲しくて、寂しくて、胸が苦しくなる。
思わず膝をつきかけた瞬間。
「何してんだ?」
訝しげな声と、肩に触れた熱。
感じた苦しさなど千々に消え、気づけば道の真ん中で立ち尽くしていた。
「え?あれ……?」
困惑に眉を寄せながら辺りを見回す。見慣れた景色と幼馴染みの姿に、眉間に皺が寄る。
「こんな所に突っ立ってるな。通行の邪魔だ」
幼馴染みに腕を引かれ道の端に寄る。礼を言いかけ、けれど何も言えずに口を閉ざしたのは、幼馴染みの首元飾るチョーカーが見えたからだ。
思わず視線を逸らし、数歩距離を取る。いつの間にか身についてしまった行動に、幼馴染みが何かを言ったことはない。成長するにつれ疎遠になっていったこともあり、自分の行動や幼馴染みの沈黙を敢えて考えたことはなかった。
「じゃあな。気をつけろよ」
そう言って去って行く幼馴染みの背を見送り、小さく息を吐いた。
何故。今更ながらに疑問が込み上げる。
幼い頃は、幼馴染みから距離を取ることはなかった。手を繋ぎ、色々な場所へ遊びに行ったことを覚えている。
いつから。何が切っ掛けか。尽きない疑問と同時に思い浮かぶのは、やはりあのチョーカーだった。
気づけば身につけていた、あの銀のクロスがついたチョーカー。あれが視界に入る度に、言い様のない不快感が込み上げる。
理由は自分でも分からない。分からないからこそ幼馴染みには何も言えず、側を離れるという選択肢しか選べなかった。
あれから、幼馴染みがチョーカーを外している姿を見たことはない。ならばきっと、不快感の理由を知って伝えた所で、自分たちの関係は変わらなかったのだろう。
もう一度息を吐く。ちくりとした微かな胸の痛みを感じたが、気づかない振りをした。
紅の花が落ちていく。
腐り、褪せた花びらが地面を覆う。その様を唇を噛みしめ顔を歪めながら、ただ見つめていた。
また一つ、花が落ちる。咲き始めの幼い花の散る様に、他と同じく腐り褪せていく様に、眉を寄せ顔を上げた。
「――っ」
いつの間にか、花の傍らに虚ろな人影が立っていた。人影は次々と花を手折り、地に散らしていく。
酷く不快で、醜い行為。躊躇いなく、ただ機械的に花を毟り続けるその行為に、顔を顰めて吐き気を堪えた。
「何故……」
耐えきれず、影に近寄りその腕を掴む。込み上げる怒りにも似た疑問に、掴んだ手に力が籠もった。
「なんでっ……あなたが招き入れ、守ると受け入れたのが最初なのに!なんで、こんな簡単に……っ!」
何を言っているのか、自分でも分からない。
ただ許せなかった。受け入れたものを簡単に切り捨てる行為が。
また一つ、花が落ちる。
咄嗟に手を伸ばした。手の中で、色を失わない美しい紅が花びらを散らす。
気づけば、咲く花も散る花もない。
あるのはただ、祈り救いを信じた者たちの、力なく臥した躯だけだった。
「あなたの言葉は、最初からすべて偽りだった。くだらない夢のために、多くの花が散った」
「多数ではない。少数だ」
淡々とした声に、影へと視線を向ける。黒の影が揺らいで、誰かの姿を浮かばせては消していく。
「切り捨てなければ、すべてを失うことになった。少しでも多くを守るための選択だった」
「馬鹿みたい」
思わず鼻で笑う。必要な犠牲。仕方がないこと。
理解はできても、納得はできない。それでは何のために、多くの人々が船を作り、海の向こうまで長旅を命ぜられたのか。
不意に、脳裏を広大な青の海が過ぎていく。
空から振る、海猫の声。響く空砲に、巨大な船を見た気がした。
「――あ」
はっとして、顔を上げた。
辺りを見渡せど、地に臥す人々も、船も、海すらも見えなかった。
あるのは、目の前で咲き誇る紅の花。見覚えのない、けれども知っている場所に、困惑に眉が寄った。
「何してんだ。こんな所で」
静かな声に、ゆっくりと振り返る。
近づく幼馴染みの目を、何も言わずに見つめる。感情の読めない目。その奥に、隠し切れない痛みを見た。
「何しにきたの?」
問い返すが、幼馴染みは何も言わない。自分の横を通り過ぎ、紅の花の前で膝をついた。
幼馴染みの首元で、銀のクロスが光を反射する。手を組む姿に、込み上げるのは軽蔑だった。
「否定し、切り捨てた者たちの真似事をするのは楽しい?どこまで愚弄すれば気が済むの?」
「愚弄しているつもりはない……約束だったから」
こちらを振り返りもせず、幼馴染みは今度は鞄から白い布を取り出すと、地に落ちた花びらを広い集めていく。
「今は自由だから……だからこうして、自己満足だろうと好きにできる」
「なにそれ……本当に、馬鹿みたい」
乾いた笑いが漏れた。
笑うしかできなかった。頬を伝う滴は、きっと気のせいだ。
「――かえる」
呟いて、掌に載せたままの紅の花びらを握り潰した。
ぱらぱらと地に紅が振る。まるであの日の光景のようだとぼんやり考えながら、体が解けていくのを感じた。
こちらを振り返り、僅かに顔を歪める幼馴染みに微笑んだ。何かを言いかけるその前に、手の中に残った紅を風に乗せて空に散らした。
「思い出しちゃったから、還らないと。彼らの祈りを咲かせ続けるって、あの日宣言してしまったしね」
「なら俺は、その咲き誇り散った花が踏みにじられないように、拾い集める……お前がまた、戻ってくるまで」
真剣な眼差しに、苦笑が漏れる。聞こえる祈りの声に耳を澄ませながら、そっと目を閉じた。
「仕方ないな。なら彼らの祈り、紅の記憶の色が抜けて、白になったら戻ってくるよ。それまでさよならだ」
「あぁ、またな」
遠い昔。
一国の長だった幼馴染みは、海の向こうとの繋がりを求めた。
けれど海を越えて齎された祈りを、幼馴染みは否定し排除した。そうしなければ、国は滅びた。
自分には、祈る彼らの気持ちは分からない。命を賭して信じ続けたその唯一の存在の大きさを知らず、そして幼馴染みの苦悩も理解できなかった。
ただ受け入れたはずの者たちを切り捨てることの理不尽さが、何を言っても変わらない無力さが悲しかった。
だからあの日、無慈悲に手折られる花に手を伸ばした。散る自身の紅は大地に染み込み彼らの祈りと混じり合い、紅の花を咲かす木になった。
ここで彼らの祈りを咲かせることに、悔いはない。祈りの言葉は心地好く、嫌いではなかった。
ひとつ、花を落とす。
咲き終えた花。誰かの祈り終えた証。
地に落ちたそれを、幼馴染みが丁寧に白の布に包んでいく。
紅の花の端が、僅かに白に滲んでいることに、幼馴染みはいつ気づくだろうか。
20251122 『紅の記憶』
11/23/2025, 9:39:12 AM