遠い鐘の音
その少女は、鐘の音を聞くのが大好きだ。特に除夜の鐘。
夜の、真っ暗の闇のなか。凛とした音で、新たな年を祝福するあの音。その音を鳴らさんと集まる、人々の賑わい。冷たく吹雪く風すら。
――そう。
ひとの「喜ぶ姿」が好きな子どもだった。
けれど、ある日。
その音は、変化する。
それは、少女が高校生になって、半年の頃よりはじまる。
いじめだ。
何も大きな理由なんてない。ただの「暇潰しのターゲット」だった。
画ビョウが初めて靴に入っていたあの日が、過去なのに、やけに鮮明に覚えている。
グラウンドに、イチョウの葉が散らばりはじめた秋が、少女に降りかかる。
服を隠され、頭から水をかけられ、ノートには荒々しい文字たち。
そして、少女は願った。
――もう、何も見たくない、聞きたくない、と。
そう願って、涙で枕を濡らしながら、眠りについた。
そして、叶ったのは。
「難病、ですね」
言葉の消えた世界のなかで、医師はそう、診断を下した。
ひとの賑わいを感じるのが好きな彼女は、ひとの言葉を聞き取ることが叶わなくなったのだ。
それから月日は流れる。
3年生になった少女はいま、フリースクールに通っている。もう、あのイチョウの木を見上げることはない。
ただ、言葉は受け取れないままだ。その傷は、夜の闇のように深い。
それでも、心まで闇に堕ちきってはいなかった。
それは、もし堕ちても掬ってくれる手があったからだろう。
――鐘の音は、聞こえる。
みんなの笑う顔も、よく見えている。
【もう、何も見たくない、聞きたくない】
神様は、その願いの半分はしっかり叶えてくれてしまった。でも、まだ半分は残っている。
彼女には、走れる足がある。言葉は聞きとれなくても、雰囲気は感じとれる。
フリースクールでは、車椅子の生徒も友達のなかにいて。彼女の補助は、そんじょそこらの大人より出来る自信がある。
そう。きっと、人に恵まれたと思うのだ。
不便な耳ではあるけど、友達と笑うことはできる。
だから、今年も。
家族、友達とともに、除夜の鐘を鳴らす列に並ぶ。相変わらずの、ざわざわとした音たち。
難病で失ったものや、変わった人生ではある。
でも、何もかも奪われてはいない。
あの、闇に響く透き通る鐘の音は、少女の心も、光で包み照らした。
やっぱりみんなの、煌めく笑顔が好きだ。
『そんな事があっても、笑えるあなたは、もしかしたら選ばれた側なのかもしれないね』
車椅子の補助をしながら、友に伝えられたことがある。
――――……――。
ふと、ざわざわとした順番の列の音のなかに、聞こえないはずのなにかの「言葉」が聞こえたような、なんとも不思議な音を感じた。聞き取ることができない、風のような音。
それは、もしかしたら神様の言葉だったりするのだろうか。あの、願いの半分を叶えてきた神様からの。
――でも、立ち止まってはいない。
あの日の画ビョウはもう、痛みはあっても怖くはない。
けれど、イチョウの葉の色はよく覚えている。
そう。無理に忘れることも、しなくていい。
それは全てきっと、糧となっているのだから。そう思えば自然と、笑みが浮かぶ。
それは、いつだって。
鐘の音の祝福が、言葉よりも雄弁に。少女に語ってくれているような、そんな気がする。
そう思いながら、年のはじまりの鐘を、高らかに鳴らしたのだった。
12/13/2025, 4:19:30 PM