結城斗永

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久しぶりの『クジラの落とし物』更新です。
もう長らく更新していないので、第一話からのあらすじも併せて。

【第六話までのあらすじ】
崩壊目前の仮想世界でNPCとして生きる​セイナとマドカは、川を流れる「優先搭乗券」を拾う。新世界への移行を夢見て「世界の端」を目指すが、NPCでは通ることのできない見えない壁に阻まれる。村で娘・ホヅミを探すプレイヤー・ユミと出会い、搭乗券の持ち主である『ユト』がホヅミを捜索していることを突き止める。
一行はユトがいる『クジラの丘』へ向かうも拒絶され、一時避難した教会でホヅミの歌声が入った音声データを発見。データ転送に巻き込まれる形で『祝福の湖』へと飛ばされ、崩壊しかけた女神と対峙する。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

第七話『偽りのクジラ』

 私は森の中にぽっかりと空いた穴のような湖を前に、しばらく呆然としていた。
 祝福の湖――。噂には聞いたことがあった。プレイヤーのランクに応じて、願いを叶えてくれる女神。その声は聞き惚れるほどに美しいと。だが、いま私たちの目の前にいるのは、顔の半分をバグに侵食され、擦れたテープのような声を発する『女神だったもの』の姿だった。
「苦しいわよね……」
 隣でユミがつぶやいた小さな声に、私の胸が痛む。その声は目の前の女神に充てられたようであり、病床に眠るホヅミの姿もちらつかせた。
『エラー、ユーザー……認識、不能……』
 静まり返った森に響くノイズ混じりの声に、言いようのない恐怖を覚える。
 マドカが私の服の袖をぎゅっと掴んだ。相変わらず冷たいその指先がわずかに震えているようだった。
「ねえ、セイナ……これ、本当に女神様? 壊れたおもちゃみたいだけど」
「……ひどいバグね」
 この世界に居続ける者の成れの果てを見るようで、私は思わず息を呑んだ。
『未登録……データ、排除……』
「待って、私たちは――」
 否定しようとした言葉が違和感にかき消される。懐の『優先搭乗券』が、女神の放つノイズに共鳴するように熱を帯びた。
 女神の首が鈍い音を立てながら不自然に傾き、目から放たれた青白い光がカードと私の姿を交互になぞる。
『ID照合……完了。……ユト……。クジラ。……おかえりなさい、ませ……』
「いま……、なんて?」
 私は呆然と立ち尽くした。霧が晴れるように女神の敵意が消えていく。代わりに、静かで無機質な『歓迎』の空気が辺りを満たす。
「……ねえ、セイナ。いまの聞いた?」
 マドカの声が、妙に明るく弾んだ。彼女は恐る恐る私の影から顔を出すと、バグった女神をまじまじと見つめた。
「『ユト』って言ったよね? この女神様、なんか勘違いしちゃってるみたい」
「ダメよ、本当のことを言わなきゃ……」
「本気で言ってる?」
 マドカが私の前に回り込み、その瞳を爛々と輝かせた。
「これって、最高のチャンスじゃない。このままユトのふりをすれば、クジラの丘にだって入れるかもしれない」
「でも、もしバレたら……」
「バレるも何も、この世界はもうバグりかけなんだよ。正直に生きても消えちゃうんなら、嘘でも生き延びる方がずっと賢いと思わない?」
 マドカはそう言うと、わざとらしくコホンと咳払いをして、女神に向かって胸を張った。
「えぇ、女神様。私たちはユト御一行よ! 訳あってこんな姿だけど、本物なんだから。さあ、クジラの丘に帰らせて!」
 マドカの変わり様に半ば呆れながらユミの方を振り返ると、ユミは苦しげに胸元を押さえて膝をついていた。
「ユミさん!?」
「大丈夫……少し目眩が……」
 そう言って顔を上げたユミの声は掠れていた。女神の顔を見つめるユミの顔は、まるで死の縁に伏す愛する人を見つめるような、悲痛な光を湛えている。
「行きましょう……。もう、私たちには時間がない。お願い……私を、ホヅミのところに……」
 ユミの声に切実な想いが滲む。
 私は唇を噛み締め、手の中の搭乗券を強く握った。
「……わかりました。女神様、私たちをクジラの丘に……」
 言葉にした瞬間、心臓が軋むような音を立てた。自分ではない誰かを名乗ることへの、生理的な拒絶反応。けれどそれ以上に、私の魂の深い場所が、ユトに会うことを望んでいた。
『要望を……受理します。……ランク証明の……再発行を実行……』
 女神が両手を広げた。その指先から放たれた青白い光が、私たち三人を包み込む。
「痛ッ――」
 その瞬間、まるで全身の皮膚の下を、無数の針が這い回るような感覚に思わず声が出る。
 ふと自分の左手首を見ると、そこにはクジラの尾を模したような、歪な光の紋章が刻まれていた。それは脈打つように赤く点滅し、ノイズを撒き散らしている。
『さよう……なら、この世界に……祝福を……』
 女神の姿が、最後の一言とともに湖の霧のなかに消えていった。
 同時に、世界が大きく揺らぐ。足元が軽くなり、私たちは真っ逆さまに、光の穴へと吸い込まれていった。

 鼻先に甘い鼻の香りがかすめ、頬を暖かい風が撫でる。ゆっくりと目を開けるとそこには晴れ渡る青い空と緑の丘が広がっていた。
 丘には立派な家々が、互いの資産と心の余裕を競い合うように広く間を取って建ち並んでいた。見上げれば、薄い絹のような雲が漂う空には、大きな月が微かに見える。未だにデータの塵を吐き出し続け、すでに半分ほどがえぐれていた。
「……ここが、クジラの丘?」
 マドカが真っ先に立ち上がり、ドレスの砂を払って感嘆の声を上げた。
「ユミさん、大丈夫――」
 私はユミに手を貸そうと彼女に手を差し伸べた。しかし、そこで目にしたのは、まるであの女神のように体の節々にノイズの走る、ユミの姿だった。

12/26/2025, 9:37:29 AM