その懐中時計は壊れていた。
ガラスはひび割れ、黒の針は沈黙を続けている、耳を澄ませても、僅かにも音は聞こえない。
「どうして、壊れた時計を持っているの?」
夜の公園。ベンチに座る青年の横で、幼子は懐中時計を見つめながら問いかける。
「いつか、必要になる時が来るからだよ」
首を傾げる幼子の頭を優しく撫でながら、青年は淡く微笑んだ。時を止めた懐中時計に視線を落とし、動かない針をガラス越しになぞる。
「時間を必要とする誰かが現れた時、時計はまた動いてくれるんだ」
穏やかに、残酷に。
青年は幼子に向けて語る。
その微笑みは慈しみに満ちて、幼子の目には何故か泣いているように見えていた。
「――誰かは、現れてくれるの?」
吐息のような幼子の微かな声。青年は目を細め、遠く空を見つめ口を開いた。
「時間を必要とする人はたくさんいるよ」
その呟きは、どこか寂しげな色を湛えている。どこか後悔を滲ませた、そんな静かな声だった。
「僕も、必要としてしまったからね」
懐中時計を撫でる指が微かに震えているのを、幼子はただ見つめている。そして青年の目を見つめ、首を傾げた。
「後悔、しているの?時間を必要としたから?」
幼さ故か、問う言葉に遠慮はない。真っ直ぐな視線に、青年は小さく息を呑んだ。
そっと手の中の懐中時計を撫でる。幼子の視線から逃れるように視線を彷徨わせ、やがて力なく微笑み目を伏せた。
「後悔してはいけないよ。あの時時間を必要として、この時計を受け取り使ったのは、確かに僕の意思だったんだから」
青年の震える唇が、吐息を溢す。
「この時計はね、人の命の砂を動力に動いているんだ。誰かの命の時間を使って持ち主を生かす。悲しい時計なんだよ」
そう言って、青年は静かに語り出した。
在りし日の、青年の最後の願い。それに応え、手渡された懐中時計に込められた、小さな命を。
青年は元から病弱で、蝕む病により長くは生きられない体だった。
最後の時。青年の意識は、ひとつの悔いを胸に抱きながら自身の体を見下ろしていた。
もう少しだけ。数日だけ時間が欲しかった。友人と交わした約束を守りたかった。
「泣いているの?」
不意に聞こえた声に、青年はゆっくりと顔を上げた。
振り返ると、そこには幼い少女が一人。胸に抱いた猫のぬいぐるみを抱き締め、無垢な瞳で青年を見つめていた。
「体が痛むの?おまじないをしてあげようか」
眠る青年の体に近づき、少女は片手を伸ばす。
「いたいの、いたいの、とんでいけ」
頭や体を撫でながらおまじないを繰り返す少女に、青年はそっと少女の手を止めた。
「ありがとう。でも、大丈夫。もう痛みはないんだ」
「じゃあ、どうして泣いているの?」
首を傾げ、少女は今度は青年の顔に手を伸ばした。頬を伝う滴を拭われ、そこで初めて泣いていることに気づく。
自覚してしまえば、さらに涙が込み上げる。悲しみに暮れる家族や友人たちの顔を思い浮かべ、唇を噛みしめた。
「何が悲しいの?」
少女はただ問いかける。
純粋な疑問を宿した声音。真っ直ぐな瞳。
不思議と話してしまいたい気持ちになった。
「友達と約束をしたんだ。次に来る時には、この街の写真をたくさん撮ってきてくれるって……あまり、外には出られなかったから」
その時の友人の笑みが思い浮かぶ。だからもう少し頑張れと、指切りした時の小指の熱をまだ覚えている。
それが叶いそうにないことが悲しいのだと、青年は少女に語った。
「もう少し時間があれば、ちゃんとお別れを言えたのに。間に合わないことが、とても悔しい」
「時間があれば、悲しくないんだ」
唇を噛みしめた青年を見て、少女は小さく頷いた。ぬいぐるみの背を一撫でし、中へと手を差し入れる。
しばらくして、少女はぬいぐるみから手を引き抜くと、その手には銀色に煌めく懐中時計が握られていた。
「これあげる」
「え?」
戸惑う青年の手に、少女は懐中時計を押しつける。無垢な瞳が、ほんの僅か柔らかく綻んだように見えた。
「わたしには、必要ないから……お迎えも来てるし、もう行くね」
「待って……!」
引き留める間もなく、少女の姿が霞み消えていく。伸ばした手がすり抜けて、青年は目を瞬いた。
さらさらと砂が溢れ落ちる音がして、白い光が目を焼いた。
咄嗟に強く目を閉じ。
「夢……?」
次に目を開けた時、青年はベッドの上で横たわっていた。
重い腕を持ち上げる。手の中には、少女に渡された銀の懐中時計が静かに時を刻んでいた。
「この時計が時を刻んで、僕は友人との約束を守ることができた。その時は時計が何なのか、まったく分かっていなかった」
慈しむように懐中時計を撫でながら、青年は語り続ける。
「時計について知ったのは、一ヶ月も後になってからだったよ。隣の病室にいた女の子が、僕が目覚めた日に亡くなったって話を聞いた……その子は、僕に時計をくれた女の子だった」
顔を上げ、青年は眉を下げ笑った。けれどそれは笑っているというよりも、泣いているように見えた。
「僕はね、その子の命を消費して生きていたんだ。それを知った時すぐに時計を手放したけど、その子が戻るはずもない。それに……結局、時計は僕の元に戻ってきてしまった」
その時にはもう、懐中時計は壊れていたのだという。死者の時は進まないということだろうと、青年は語った。
幼子は青年の手の中の懐中時計を見た。壊れ、動かない時計。誰かの命。
ゆっくりと目を瞬いて、青年と目を合わせた。
「時計を、返したいの?」
幼子の真っ直ぐな問いに青年は目を見張り、微笑んだ。
褒めるように頭を撫でて、壊れた懐中時計を幼子に差し出した。
首を傾げて幼子は懐中時計を見て、そして青年を見つめた。ゆるゆると首を振り、違うと呟いた。
「わたしのじゃないよ。これはわたしの時計じゃない」
小さな手が、青年の頬に触れる。流れる滴を手で拭い、幼子はふわりと微笑んだ。
「これね、猫さんの時計なの」
「猫の……時計?」
「うん。九つある命のひとつをくれたんだよ。お迎えが来る間、退屈だろうからって」
青年の手を、差し出す懐中時計ごと幼子は両手で包み込む。軽く振って手を離せば、壊れていたはずの懐中時計は、傷一つない美しい銀色を煌めかせながら時を刻みだした。
「お兄さんが最後まで使ってくれてよかったんだよ……ごめんね。わたしが何も言わなかったせいで、お兄さんを悲しませちゃった」
「違うっ!僕は……!」
青年の否定の言葉は、唇に触れた幼子の人差し指で消える。口を閉ざせばそっと指は離れ、そのまま青年の手を取って幼子は立ち上がった。
「お兄さんもいらないなら、手放しに行こう」
「手放しに?それって、どういう……」
幼子の言葉に疑問を口にしかけるが、返るのは微笑みのみ。軽く手を引かれ、それ以上問うこともできずに青年もまた立ち上がった。
幼子に導かれ、夜の公園を抜けていく。見慣れた住宅街に出るはずの出入り口は、過ぎた瞬間に木々に囲まれた知らない場所へ二人を連れ出した。
「ここは……?」
「こっちだよ」
目の前には、枯れかけの巨木。呆然と見上げる青年の手を引いて、幼子は木の根元まで歩いていく。
「ここに時計を埋めるの。そうしたら綺麗な花を咲かせてくれるんだよ」
「時計を埋めるの?」
「うん、そう。手放した時間の分だけ、優しい夢を見せてくれるの」
にこにこと笑う幼子に促され、青年は木の根元に膝をつき土を掻いた。ある程度掘り進め、できた穴の中へと懐中時計を入れて、そっと土をかけていく。
懐中時計が見えなくなった瞬間。ざわりと空気が震えた。顔を上げた青年の前で、枯れていたはずの木に葉が茂り、美しい花を咲かせていく。
風が、花弁を空に舞い上げた。月の光を浴びる純白の花は雪のように儚く、蛍の光のように幻想的に夜を彩っていく。
「あぁ……」
「ね?綺麗でしょ」
思わず溢れた感嘆の吐息に、幼子は嬉しそうに木を見上げながら笑う。両手を広げ、空を舞う花弁を追いかけた。
不意に、どこかで猫の鳴き声が聞こえた。その声に幼子は木を見上げ、大きく手を振り出す。
「猫さんだ!お迎えが来たよ」
幼子のように木を見上げる青年の前で、枝がしなり葉が音を立てた。小さな影がしなやかな動きで下りてくる。とん、と小さな音を立て地に降り立ったのは、二つの尾を持つ、美しい黒い毛並みの猫だった。
「時間をありがとう。前に教えてくれたように、使わなかった時間は土に埋めて手放したよ。わたしもお兄さんもあんまり使わなかったから、とっても綺麗な花が咲いたね」
そう言って再び花弁を追いかけ始めた幼子を、黒猫はゆらりと尾を揺らしながら見つめる。そして立ち尽くす青年へと視線を向けて、小さく鳴き声を上げた。
「え、あ……その……」
状況を理解しきれていない青年は、視線を彷徨わせる。木と、幼子と、黒猫に順に視線を向けて、一呼吸の後に深く頭を下げた。
「ありがとうございます。時間があったから約束を守ることができました」
感謝の言葉を述べる青年を、黒猫は暫し見つめ。
「欲に溺れなかったのは、褒められるべきこと」
穏やかに語りかけ、月を見上げて高く鳴き声を上げた。
「出発だね。お兄さん、一緒に行こう」
猫の声に戻ってきた幼子が、青年と手を繋いだ。二人を一瞥し歩き出す黒猫を追って、幼子は歩き出す。手を引かれるままに青年も歩き出した。
「次はきっと、余るくらい時間がたくさんあると思うよ。我慢しないで、好きなことをしようね」
「うん……そうだね。今度は色々な所へ行こう」
笑う幼子に、青年も微笑みかける。繋いだ手を揺らし、黒猫の後を歩いていく。
風が吹き抜け、花弁を散らす。
猫と二人が去った後、木は再び葉を落とし。
時間を手放す誰かが訪れるまで、静かに佇んでいた。
20251123 『手放した時間』
11/25/2025, 9:40:20 AM