sairo

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肌寒さに目が覚めた。
微睡む意識で、周りを見渡す。
まだ薄暗い部屋の中、カーテンが微かに揺れているのが見えた。
窓を開けた記憶はない。自分の他に窓を開けるような誰かもいない。
何故窓が開いているのだろうか。込み上げる疑問に、だが窓を確かめる気力はなかった。
体が鉛のように重い。気を抜けばすぐにでも瞼が閉じてしまいそうだ。
ぼんやりと、揺れるカーテンを見る。強く風が吹き込んだのか大きくカーテンが揺れ、僅かに外が覗いた。
薄暗く、寒々しい空。葉の落ちた木。窓の結露。
きっと、外は霜が降りているのだろう。

はぁ、と息を吐き出す。暗がりの中でも息が白に染まるのが見えて、小さく体を震わせた。
布団に潜り込むが、寒さは少しも和らぐことはない。逆に段々と体温が奪われていくようで、危機感を覚えて無理矢理に布団から抜け出した。
重い体を引き摺って、窓へと向かう。手を伸ばし、カーテンを引いた。

「――っ」

しん、と静まり返った外に、息を呑んだ。見慣れた景色がまったく知らない景色に見えて、訳もなくこの場から逃げてしまいたい衝動に駆られた。
僅かに開いていた窓に手を伸ばす。締めようと力を込めた手は、けれど何故か少しも動かない。戸惑いに手を離そうとするが、意思とは反対に手は勝手に窓を開け放っていく。

「なんで……」

呟いて、自分の手を見つめた。
不思議と恐怖はない。寒さで意識がはっきりとしていないからなのかもしれないが、自分にはよく分からなかった。
視線を手から窓の外へと移す。霜の降りた寒々しい光景に、ふとひとつの足跡を見つけ目を瞬いた。

「動物の、足跡?」

先が二つに割れた小さな蹄の跡。窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして足跡を見る。
見たことがあるはずなのに、それがどんな動物だったのかを思い出せない。思考がまとまらず、何を考えていたのかすらも曖昧になっていく。
はぁ、と息を吐けば、白い靄が空気に溶けていく。体は確かに寒さを訴えているはずだが、それすらもどこか遠く感じられた。

ふと、誰かに見られている気がして、顔を上げた。ゆっくりと周囲に視線を向ける。
誰もいない。あるのは葉の落ちた木々と霜と足跡。霜の白にくっきりと刻まれた、こちらに向かう蹄の跡。
彷徨う視線が、木とは違う何かを認めた。枝のようで、明らかに違う何か。それは獣の角のように見えた。
黒く濡れた瞳が、静かにこちらを見つめている。その瞳と目を合わせたまま、さらに体が前へと傾いでいく。

からん。
鐘の音が響き、弾かれたように体を起こした。
どれだけ時間が経ったのか。体はすっかり冷え切り、かたかたと震えて必死に熱を産生しようとしている。危機感を感じて、凍える指先に力を入れ窓を閉め鍵をかけた。
窓から見える空には、高く陽が昇っている。地面の霜は溶け、足跡一つ残ってはいなかった。

「夢……?」

どこからが夢で、どこまでが現実なのだろうか。改めて周りを見ても、何も見つけられはしない。
最後に見た瞳を思い出す。真っ黒な瞳。何もかもを見通すような、感情の乗らない獣の眼。
見極められていた。根拠のない確信に、寒さからではない震えを感じて、誤魔化すように暖房のスイッチを入れた。
そのままベッドに倒れ込む。じわりと暖まる部屋と体に、忘れかけていた眠気が込み上げ、小さく欠伸を漏らした。
今日の予定を思い浮かべつつ、このまま眠ってしまおうかと目を閉じる。すぐに意識が微睡んで、沈んでいく端でぼんやりと思う。
足跡はこちらに向かうものだけだった。もしかしたら、今もいるのだろうか。

からん、と鐘がなる。それを疑問に思う間もなく、意識が深く沈んでいく。
閉じた瞼の裏側であの黒く濡れた瞳を、その奥に広がる深い雪に沈む街の姿を見た気がした。





遠く聞こえる電子音に、沈んでいた意識が浮上する。
目を開ければ、見慣れない天井が目に入った。それを疑問に思いながら、視線だけで辺りを見渡した。
三方を仕切るカーテン。無機質なベッド柵。布団の下から伸びるいくつもの管。規則正しく波形を刻む何かの機械。
何故、と疑問に思いながら、重い体を無理矢理に起こす。途端に鳴り響くアラーム音に身を竦めていれば、こちらに近づく複数の足音が聞こえた。
呆然としている間にカーテンを開けられ、看護師たちが顔を覗かせる。僅かに目を見張り、慌ただしく行き交う様子をどこか他人事のように眺めていた。
様々な検査を受けながら、開け放たれたカーテンの向こう側の窓へと視線を向けた。
広がる青空に、厚い雲は見えない。視線を下ろしても雪の白はなく、いつもと変わらない無機質な街並みが見えるだけだった。
長い夢を見ていた気がする。どんな夢を見ていたかなど、起きてしまった今は霞み揺らいで、酷く曖昧だ。
雪を待っていたのだろうか。それとも雪に連れて行かれることに怯えていたのだろうか。
浮かぶ思いは、訪れた医師の言葉に消えていく。
どの質問に対しても首を振るしかできない。倒れる前に何があったのかどころか、今の自分の状態すらはっきりしない。
気づけば倒れていた。何日も目を覚まさなかった。原因は分からない。
与えられた情報からも、何一つ分かるものはなかった。
不意に眠気が込み上げ、瞼が重くなっていく。そんな自分に、医師は僅かに険しい顔をしたが、看護師にいくつか指示を出し去っていく。リクライニングを倒され横になれば、もう目を開けていられなくなった。
周囲の音が遠くなる。沈む意識の中、小さく体を震わせた。
今日は随分と冷え込んでいる。布団を被っていても、寒さを感じるほどに。
微睡みの中、思う。

きっと明日の朝には、霜が降りていることだろう。



20251128 『霜降る朝』

11/30/2025, 9:47:27 AM