―十年後の私から届いた手紙―
ポストから取り出した封筒は冬の空気を
吸い込んだかのように少しだけ冷たかった。
その封筒は、
思ったより軽かった。
なのに、
指に触れた瞬間、
やけに存在感があった。
紙の表面は、
少しだけざらついていて、
冬の空気みたいに乾いている。
ポストの鉄の匂いと、
外の冷たい空気と、
紙の古い匂いが、
混ざっていた。
部屋に戻ると、
暖房の風が、
頬に柔らかく触れる。
さっきまで冷えていた指先が、
じわじわと温度を取り戻す。
それでも、
封筒だけが、
まだ外の季節をまとっているみたいだった。
テーブルに置く。
時計の秒針の音が、
やけに大きく聞こえる。
カチ、
カチ、
カチ。
飲みかけのココアを一口飲む。
少し冷めていて、
甘さの奥に、
粉っぽい苦さが残る。
喉の奥に、
乾いた膜みたいな感触が残った。
差出人の名前を見る。
私。
十年後の、私。
意味が分からないのに、
分からないまま、
心臓だけが理解しているみたいだった。
封を切る。
紙が擦れる音が、
妙に、静かだった。
中には、
一枚だけ。
折り目の部分だけ、
少し柔らかい。
何度も、
開いたり閉じたりされたみたいに。
『元気?』
インクの匂いが、
ほんの少しだけ残っていた。
書いたばかりじゃないのに、
まだ、
消えきっていない匂い。
『貴方は今、悔しいってちゃんと思えてる?
誰かの成功を羨ましいって思えてる?』
喉の奥に、
さっきのココアの甘さが、
急に、
しつこく残る。
『諦める理由を、
上手に並べられるようになってない?』
窓の外で、
遠くの車の音がする。
生活の音。
何も特別じゃない音。
でも、
その普通さが、
少しだけ怖かった。
『ねえ。無理に強がらなくていいから、
その感覚に慣れようとしないで。』
指先が、
紙の端を、
少しだけ強く押す。
爪の下に、
紙の硬さが残る。
『何も感じなくなったほうが楽だし、
それに一番早く終わる。』
息を吸う。
部屋の匂い。
洗剤。
暖房。
少し冷めた甘い飲み物。
全部、
いつもの匂い。
なのに、
少しだけ、
遠く感じる。
『もし、“もういいや”って思い始めたら、
それを“成長”だと絶対思わないで。』
胸の奥に昔閉まったままだった感情が、
空気に触れて少しだけ形を取り戻す。
古い箱を空けた時の埃の匂いが流れてくるような
感じがした。
『私はね。十年経ってもまだ慣れてない。』
『叶わなかったこと。
届かなかったこと。
選ばれなかったこと。』
読み始めたときの紙は冷たかったのに、
手に触れているが温かくなっている。
『でも。』
『それをなかったことにしようとしないで。』
『もし今、何かを手放そうとしているなら。』
『それを絶対に捨てないで。
まだ、持ってて。』
『重くても。』
『格好悪くても。』
『誰にもわかってもらえなくても。』
『十年後の貴方は、
ちゃんと持ってくれた私を憶えてるから。』
手紙を閉じる。
紙はもう、
最初より温かかった。
まるで、
私の体温を、
覚えてしまったみたいに。
部屋は、何も変わっていない。
カーテンも。
時計の音も。
空気の匂いも。
私は手紙を引き出しの中には入れなかった。
前みたいに埃を被せないように。
ココアをもう一口飲む。
さっきより、
甘かった。
ただ、心なしか味が薄くなっているような気がした。
題名:【提出期限まであと3650日。】
2/15/2026, 11:09:43 AM