タッタッタ ドテドテドテ てくてくてく
夏に聴こえる足音は数あれど、冬の足音は、雪を踏みつける。ザクザクザクのイメージ1択の気がする。
男は、そんな思考の無駄使いをしながら眠気と空腹を紛らわせていた。
今、動けば奴を見逃してしまうかもしれない。
男は刑事としてのプライドで、チラチラと雪の降り始めた道路脇の電信柱の影に身を隠しながら犯人の帰りを今か今かと待っていた。
あぁー、こんな時に車があればな…
誰に聞こえるでもないのに心の中だけでボヤく。
警察車両は、ある重要事件だかの捜査で一昨日から居座っている、本庁の1課のエリートの方々が使っていて、所轄の刑事の自分らには1台も残されていなかったのだ。そもそも、車を1台使うにもいちいち書類やらの手続きが必要で、こんな空き巣を2〜3件したぐらいの犯人逮捕のために貸し出すわけもないのだ。
さっきまで、心のよりどころだった、今じゃ氷の塊のように冷えきった缶コーヒーをコートのポケットに戻し、靴先に積もった雪を蹴り払う。
早く、来い!でなければ俺自身がポケットに入れた缶コーヒーみたいに冷えきってしまう。
もう、つま先の感覚も定かではなくなった、その時…犯人らしき人物が目の前に現れた。
すぐさま、近づき逮捕令状を突きつける…ハズなのだが、手が悴んで、もたつく。
瞬間、犯人は、背を向けて逃げようとした。
男は、逃がしてなるものかと追いかける。
降ったばかりの雪の上を駆けたのでキュッキュッと音が鳴り進む。ザクザク以外にも音はあったなぁ。と思考が飛びそうになるのを抑えながら、冷たい住宅地の中をキュッキュッと駆け進む。
犯人のキュッに男のキュッが追いつく、男は犯人の上着の襟を掴み手前に引き倒した。
右手にハァーと吐息をかけてから逮捕令状を出すと、ガタガタとリズムを刻む口では喋れないと踏んで、倒れ込んだ犯人の顔に令状を押し付けた。と同時に逆の手で素早く手錠を取り出し犯人の両手に掛けた。犯人が一瞬ヒャッと手錠の冷たさに驚いたが、男には、もう、何も感じていなかった。
とりあえず、今は、暖を忘れた身体に熱を加えたい。
男は犯人にかけた手錠を引きながら署までの道をザクザクと急いだ。
むかし、寒空の下で夜空に輝く星が異様に明るくそれを眺める私は思わず、
温かいなぁ。
と口走ったことがある。
街灯がさびしい田舎のあぜ道を母と2人、寒さを噛み潰しながら家まで歩いた時のことだ。
それを聞いた母は、ハァ。と溜め息とも笑いと取れぬ素っ頓狂な音をだすと、
お前は不思議なことを言うねぇ。でも、あの星がある宇宙っちゅうんは…
と、宇宙の気温が、およそ想像がつかない、マイナスうん百℃もするくらい寒いだの。そんな宇宙なのだから、そこにある星の中には氷だらけの星もあるだの。夢のない話しをペラペラと白い息まじりに話してきた。
この母親は子ども相手になんて事を言うのだろう。と子どもながらにガッカリしたのを覚えている。
あれから40年以上たった。
今、母は鉄の扉の向こうで温められ白い煙とともに天に昇っている。
それを見上げる私の横で息子が、ふと、
おばぁちゃんは、これからお星さまになるんだよね。宇宙に行けるなんていいなぁ。
と、どこぞの大人に吹き込まれたウソっぱちを鵜呑みにしていた。
私は、それが聞こえると。一瞬、鼻で笑って。
まぁ、でも宇宙っちゅうんは…。
と、宇宙の気温や氷ばかりの星のことを話してやった。子どもに言う事ではないのだが、昔、母と歩いた、あのあぜ道のことを不意に思い出してしまった事と、なんだか、それが、母への弔いの様な気がして、あの時の母の真似をしてしまった。
それを聞いて息子は、
涼しそう。
と、一言。
鉄扉越しの炎の音さえ聞きたくないくらい暑い。夏真っ盛りの8月のことである。
臭い…風呂に入りたての清潔な香りと田舎の小学生の放課後の様な匂いが容器の中で混ざりきらずに二人三脚の如く、私の嗅覚に目掛けて襲ってくる。
こんな匂い、子ども以外で許せるものなのだろうか?
バレンタイデーの日に彼女に呼ばれ、駅前で待っていると、急に不安になってきた。
「あぁーあ、遅刻してもいいから仕事終わりの汗を流してくるんだった」
誰に何を弁明しているわけでもなく、男はボソりと呟いた。
男は鳶職をしていて、今日、仕事終わりにメールで彼女から時間と待ち合わせの場所を突然送られてきた。
当然、2月14日に彼女からの呼び出しを断る男はいない。遅刻なんて持っての他だ!と思い。
仕事終わりの汗を汗ふきシートで乾拭きも、そこそこに待ち合わせ場所である駅前に来たのだった。
待ち合わせの時間まで、あと、5分…
その時になって、バレンタインデーという特別感が男を襲ってきた。
急いで、目の前の薬局へ入り、石鹸の香りと書いてあるボディスプレーを買って、全身に振りかけた…訳なのだが、自分の汗と相まって気持ちが悪い。
「最悪だ!」
付き合い始めて初っ端の二人の行事が、こんなんで彼女は幻滅しないだろうか?
不安が爪の間からゾワゾワと脳みそに震えを伝えてくる。待ち合わせの時間から2時間が
経とうとしていた。女性の支度っていうのは、どんな時でも遅いらしい。
早く来てくれ、彼女の笑顔で、このゾワゾワを安心させたいのだから。
近くでは、中学生くらいの女の子がさっきから行ったり来たりしている。
あの娘も彼氏を探しているのかもしれない。