→名作探訪 第223回
珈琲焙船『夜の海』の『ヨルノウミ』
珈琲焙船『夜の海』は、大きな外輪を船の側部に持つ外輪船だ。そのシルエットは巨大な手廻しコーヒーミルのようにも見える。
店名を冠するオリジナルブレンド『ヨルノウミ』は、珈琲好き垂涎の一杯として知られている。異なる四季の夜の海に落ちた星々を丹念にハンドピックし焙煎。純度の高い星々のかぐわしい香りは遠い宇宙を想起させる。抽出する水にもこだわっており、焙煎度合いにあわせた深度の塩抜き海域水を使用。同海域にセイレーンが多く生息することから『ヨルノウミ』の余韻は長く、しばしば耳に妙なる歌声を残すため、車の運転など眠気覚ましには不向きである。
住所不定
電語番号なし
テーマ; 夜の海
→遠い遠い記憶
私の通学していた高校は郊外にあった。美術室だが進路指導室だかの窓にぶつかって死んだキジを鍋にして食べた教師が居たとか居ないとか……、そんな噂が流れるある意味のどかな高校だった。
私は自転車通学をしていた。
風を切って、国道やら川を越え、池や田畑を横目に自転車を漕ぎ、ラストにキツい勾配の長い坂道。
学校の校門はこの坂の先にあった。生徒たちはこの坂をえっちらおっちら登ることになる。
一年に二度三度、私は通学路の夢を見る。そして、夢の中の私が高校に到着することはない。
最後の難関の坂道を嫌って森の中に迂回路を探すこともあれば、山を越えて通学しようと悪戦苦闘することもあった。ちなみに現実には森の迂回路もなければ、越えるような山もない。
最終的にいつも遠くに高校を見て目を覚ます。
理由はよくわかっている。
高校3年間が私にとって快適ではなかったからだ。座右の銘でもないのに、勝手に孤独が私の横に居座ってしまっていた。ソイツを跳ね除ける勇気も愛嬌もない不器用者。楽しい思い出は数えるほどもない。高校生活のことはあまり思い出したくない。だから夢でも学校内に足を踏み入れないのだろう。なかなかに執念深い性格だ。
高校を卒業してから何年も経っている。個人の記憶とは恐ろしいもので、記録ではないから自分勝手に補正する。夢で見る通学路のように、ありもしないものを付け足したり。
案外と私の高校生活は本人が思うよりも楽だったかもしれないし、その反対かもしれない。
一度、実際に自転車に乗って、かつての通学路を巡ってみれば、何か再発見があるだろうか?
……うひょー、ネチネチとカッコつけちゃってねぇ。世の中そんなにロマンチック且つ都合よくできとりゃしませんがな。
テーマ; 自転車に乗って
→短編・心の健康測定
あっ、おはようございます、部長。
人間ドックの精神安息数値で引っかかりまして……。あっ、他の人からも同じ話がありましたか? まぁ、仕方がないですよね。
ハイ、そうですね。総務部に産業医面談を申請します。
日程が決まり次第お知らせしますので、よろしくお願いします。
それにしてもストレス系の健康診断、細かすぎませんか? 心の健康、安全、安息、豊かさ……他にも色々、合せて10項目。それぞれに測定されて、一つでも引っかかると再検査!
健全な労働の権利は素晴らしいんですけど、転ばぬ先の杖も多すぎると使い難いような?――なんてボヤキは贅沢なのかなぁ。
テーマ; 心の健康
→センス・オブ・ワンダー
(改稿 2024.8.13)
君のピアノ演奏は、私とは全然違う。
同じピアノを使っているとは思えない音色。
同じ楽譜を読んでいるとは思えない表現力。
私のはただのピアノ曲。
君の奏でる音楽は、変幻自在。
君の奏でる音楽に風景を観る。
例えば、光。それは木陰を作る。それは蝋燭の灯。
例えば、風。それは草を渡る。それは雲を引っ張る。
君の音楽に感情を揺さぶられる。
例えば、喜び。大切な人の笑顔。謳歌する人生。
例えば、切なさ。夕暮れの一瞬。愛する人の背中。
聴衆は君のピアノに自身を投影する。
例えば、思い出。放課後の教室。テーブルの花束。
例えば、希望。小さな命の誕生。夢を叶える力。
君と私、同じ教室で同じ日にレッスンを始めたことを、君は覚えているかな?
人にそれを話すとき、私は得意げに自慢話。
独りで思い出すとき、私は悔しさに歯噛みする。
それでもね、
私は君のピアノに心を鷲掴みにされてしまう。
もっと聴いていたい。
もっと心の琴線を乱してほしい。
狂おしいほど憧れる。
私は君の奏でる音楽の虜。
テーマ; 君の奏でる音楽
→短編・
僕と会う日、彼女は左薬指の指輪を外す。
(改稿 2024.8.12)
崖の上から、僕は下を覗き込む。
崖下に当たった白い波が、泡を立てて砕けた。何度も打ち返す。この崖も少しずつ侵食されているのだろう。
波間に麦わら帽子を見つけた。海に飲まれることなく浮かんでいる。
為す術なく揺れる麦わら帽子を見ていると、思わず体が海に引っ張られそうになる。僕はよろけながら崖から少し下がった。
あの麦わら帽子、彼女のによく似ていたな。麦わら帽子にワンピースは彼女の夏の定番スタイル。
若い頃に買った物なの。ごめんなさいね、古臭いわね。
そんなことを言って、彼女は目を細めた。目尻のシワが深くなる。僕の好きな顔。
彼女の手が僕の頬を優しく撫でる。少し骨張った手のカサカサと乾燥した感触に、僕は彼女の人生を思う。彼女の生活が刻まれた手は、とても優雅な動きをする。僕の周りに彼女ほど美しい所作をする人はいない。
彼女との出会いは一つの奇跡だ。
僕は彼女との静謐な愛情は、何物にも代えがたい宝物だ。
それを守るためなら、僕はなんだってできるよ。
何でも美味しそうに食べるわね、と彼女は食事のたびに、僕がたくさん食べるのを喜んだ。
昔よりもすっかり食が細くなってしまったわ。何事においても、定量を超えると胸焼けしてしまうのよ。
自嘲的に鼻を鳴らした彼女の目に、僕の間抜けな顔が映っている。
そんな風に笑わないでよ、と僕は懇願した。
背徳の蜜は、私には甘すぎるのかもしれないわね、と彼女は遠くを見た。
繋いだ手のひら。
いつもはない違和感が何度も僕の手を刺激する。
どうしてそんなものを嵌めてるのと聞いても、彼女は答えなかった。
だから僕は……。
あぁ、考え込んでしまっていたな。夏の太陽に照らされた全身から汗が噴き出している。
服の背中が濡れるほどの汗。
おかしいな、頭がズキズキする。
熱中症かもしれない。
崖を離れようと彼女の手を引こうとして、僕は慌てる
さっきまでいたはずの彼女がいない。
波の砕ける音に混じって、サイレンの音が聞こえくる。
僕の肩が乱暴に掴まれた。
振り向くと僕の背後には、数名の警察官の真剣な面持ちが並んでいた。
「8月12日、14時02分、殺人の容疑で現行犯逮捕します」
……。
そうか……、そうだった。
僕は自分の両手に目をやった。
赤く染まった手と、同じ色をしたこぶし大の石。
僕の願いは彼女にあの指輪を外してほしい、ただそれだけだった。
ただそれだけだったのに、どうしてあんなに抵抗したの?
あの取り乱し方は君らしくなかったな。
僕たちの穏やかな愛にそぐわないなものは、何一つ要らないんだよ。
僕は前からそう伝えていたよね?
「ところで、お巡りさん。
彼女の麦わら帽子は、もう波間に消えてしまいましたか?」
テーマ; 麦わら帽子