黒い線があたりを漂っている。そのうちの1本に、彼の伸ばした指先が触れた。
何もない場所。いきなり彼の視界はそれで埋め尽くされた。手足が自由に動く。
彼はいろんなところを自由に歩いてみた。だが、どこまで行っても同じ景色が続くだけ。荒れ果てた荒野ならまだしも、ただの空間なのが余計に嫌な感じを彷彿とさせる。
もしもこのままここから抜け出せなかったら?
一生このまま?
いや、そんなわけはない。どこかに出口があるはずだ。
そう思いつつ彼は歩き続けた。足が徐々に痛み始める。何時間歩いたやも分からない。
もう無理だ。
彼が座り込むと同時に、彼女の姿が見えた。彼と目が合うなり、驚愕の表情を浮かべ、彼に近づいてくる。
そうして、彼女の手が彼の手に触れた瞬間、何もない世界は消えた。
彼の身体がひどく汗ばんでいる。
夢潜り。
したくもないのになってしまう、あれ。
今度彼が見たのは誰の夢だったのだろうか。あの彼女は誰だったのだろうか。
あそこまで何もない世界を彼は初めて見た。
だから、夢に見るほど現実を虚無と捉えているのなら、彼が救ってやりたい。
そんなことはないのだと。
君が見た夢は、君を苦しめるものに過ぎないのだと。
信じられないなら、一度だけ試してご覧?と。
今まで何度そう思っても誰一人救えた試しはないのだが。
これは、希望だ。
彼女が僕を好いてくれるかもしれないという淡い希望。
あり得るわけがない。
あり得てはいけない。
そう思っているのに、それでも期待してしまう。
僕が彼女に何をしたか。思い返すのも嫌になる。あの日、一人で泣いていた彼女を僕はーー。
最低、だ。
あんなことをしても彼女から嫌われるだけなのは判っていたのに。
現に彼女は僕を見るたび、日に日に生気がなくなっていく。
でも。記憶をなくす薬を見つけた。
WEBサイトで売ってた高価なもの。効く保証はない。金だけ取られてなんてこともあるだろう。それでも。これが本物なら、彼女は全てを忘れられる。そうしたら、僕のことを今度は愛してくれるはずなんだ。
クリックするのに迷いはいらなかった。それを水に溶かして彼女に飲ませるのも。
罪を重ねている。
大人しく諦めればいい。僕は狂っているのだから。
僕は、彼女をこんなに狭い世界に閉じ込めた。外から断ち切った。彼女を一人にした。なのに、そんな素振りは見せずに彼女を慰んでいた。
バレたのは写真1枚のせい。ポケットから落ちた、彼女の親友の弱み。
そこからは、もう失墜の一途を辿った。
薬の効能は1日後。だから、明日。明日、また様子を見に来る。
最低な僕でも、確かに明日への光があったから。もしも、上手くいかなければ。そのときは今度こそ、諦めてしまおう。
彼女に死なれるのだけは、嫌だ。
ゴーン、と音が響いた。
12月31日。除夜の鐘だ。
あっという間の一年だった。恋人ができて、浮気されて、別れて。仕事は昇格。でも人間関係は変わらず。本当、色んな出来事があった。なのに、今じゃただの思い出。あの時の気持ちも、感触も、すべてを覚えているのに、遠い出来事みたい。
今日という日もまた、夜に溶けて脳で反芻されるだけになるのだろうか。
今年一番、いや人生で一番と言っても過言ではないほどの濃いこの日が。いつかは風化されていく。
嫌だ。
縁側に出て夜空を見上げる。月が見えた。夜空を明るく照らす、月。あの輝きが太陽のまねっこでも、それでもまがいものじゃない。羨ましい。あたしもあんなふうでいいから、光っていたかった。
あたしは、この空に喩えるなら月を隠す雲。真っ暗で、淀んでいる。
また、鐘の音が聞こえた。どうせならこの煩悩を消してくれないだろうか。
いつまで経ってもうじうじと一人で悩み続けてしまうから。
彼があたしを捨てたのは、あたしが悪かったからだ。もうすぐ28なのに、初心で、彼が求めることに応じられなかった。雰囲気に流されていれば彼はあんな道に走らなかったのかもしれない。あたしが、ちゃんとしていれば。
なのにあたしは最低な事を考えた。ああ二人とも、死ねばいいのにって。
108回目がなったとき、あたしは首をつる。あたしのように最低な人間はいない方がいい。あたしを好きでいてくれた両親に会いに行くのだ。
手が震える。きっと寒さのせい。もう後戻りはできないのだから、今更何も思い残すことなんてない。
鐘の音がもう一度聞こえる。次の1回だ。最後に消える煩悩は生への執着。
でも、もしも。もしも死ぬ前に助かったら、そのときはちゃんと生きよう。救ってくれた誰かがいるから。
この日をただの思い出で済ませたくはないから。
部屋に戻り、椅子の上に立つ。
首にロープをかけ、待つ。
最後の鐘が、鳴った。
足で椅子を蹴る。苦しい。
徐々に。徐々に鐘の音が遠くなっていく。
可笑しいな。
最後まで煩悩が、消えないや。
隠された真実