ドアの開く音がして時計に目をやる。深夜一時になるところだった。ダイニングにやって来た弘樹がチラリとこちらを見てからキッチンに入る。
「お茶? 冷蔵庫にあるよ?」
「いい」
蛇口から注いだ水を半分ほど飲み干すと、
「まだ見てんのかよ」
と、オーバーに呆れた声を出した。
「うん」
ビールの缶を傾け、私は満面の笑みで返事をする。
目の前の画面では、ブカブカの長靴とレインコートを着た幼い子どもが、水色の傘を広げてニコニコしていた。
「だって可愛いんだもん。あんたも見なよ」
パソコンの位置をずらしてやると、弘樹は四歳の自分の様子を遠目に眺め、
「知ってるし」
と同じ皺を寄せて笑った。
『tiny love』
待ち合わせた時よりは随分スッキリした顔で、手を振るきみが雑踏に紛れた。聞いてくれてありがとねって柔らかく笑って。まだ少し赤い目をして。
頼ってくれるのは嬉しいし、弱さをさらけ出してくれるのは信頼の証だとは思うんだけど。
彼の知らない裏側だけに詳しくなるのはちょっと切ない。
『おもてなし』
市役所を出たら空が暗くなっていた。駅までの道を辿りながら、親切な人だったなと思い返す。ただでさえ複雑極まりない手続きを、なんとかこなしてやるかという気持ちがちょっとだけ出てくる。
三橋と名乗った窓口の女性は、四つ葉の形のピアスをしていた。同じモチーフを好んだ誰かが否応なく目に浮かぶ。二年経って思い返しても結構キツい言葉たちが、胸の奥にまた火を熾す。
エメラルド色に煌めく幸せの象徴が、形の良い耳を飾るところを思い出し、立ち止まってぎゅっと目を閉じた。
いっそ嫌いになれたらいいのに。小さく息を吐いてから、明るい地下鉄の階段をくだる。
仕方ないね。まだこんなにも好きなんだから。どうしようもない焰を、もう少しだけくすぶらせていよう。
『消えない焰』
過去は変えられないからときみは言った。それは確かに嘘じゃない。放った言葉。零れた気持ち。いいこともそうでないことも、みんなみんなバレてしまった。
ひらりひらり、グレイの羽根が目の前でひるがえる。曇り空から抜け落ちたかと思わせるほど、それは淀んだ灰色だった。持ち上がっては落下して。揺れる羽根が風に煽られる。地面でひととき休むことすら許されないみたいに。
厚い雲がものすごい速さで流されていく。向かう未来が同じならいくらでも挽回できるなんて、単純な浅はかさも押し流されていく。
答えははじめから、全部きみが持っている。
『揺れる羽根』『終わらない問い』
杉浦先輩のデスクには、年季の入った箱が置いてある。有名すぎる某レジャー施設で販売されていたらしきお菓子の缶だ。
側面には、施設キャラクターであるネズミのカップルが、満面の笑みでポーズを決めており、そばには開園15周年記念の凝ったロゴが刻まれていた。そして、蓋の上のシールにはこう書いてあった——ひみつのおかしばこ。
月曜日の出社直後、先輩はチョコレートのファミリーパックを豪快に開け、逆さにして箱にぶちまける。仕事が立て込むと無言で箱を引き寄せて、中身を立て続けに口の中に放り込んだ。私の不得意な、高カカオのチョコレートだった。
「なにがひみつなんですか?」
いつだったか、一度本人に訊いてみたことがあった。
昼休憩の仮眠で癖のついた前髪を手で押さえながら、先輩は「え?」と半笑いでこちらを振り向いた。
「その箱」と私が指差すと、
「ああ」と腑に落ちた顔をして、先輩に手を掛ける。とても優しい目と指先が、慈しむ仕草で縁を撫でた。
「ふふっ、秘密」
自分から訊いておきながらなんだか恥ずかしくなって、私は曖昧に頷いてパソコンに目を戻した。
『秘密の箱』