やさしさなんて、愛じゃない。
人にやさしくできる自分に酔いしれたいだけ。
やさしくされた人からの感謝に溺れたいだけ。
つまりは、承認欲求。
もしくは、仕事として、お金のため。
やさしさなんて、そんなもんなんだよ。
ビルの屋上で、タバコを吹かしながらアイツはそう言った。
何があったのかは聞かなかった。
聞いたところで、アイツの心の傷は癒えやしない。
そんなやさしさを必要としていない。
そうだな、と頷いて、アイツと同じ遠い空を見つめる。
青空の向こうで、小さな雨雲が生まれようとしていた。
だけどさ、お前が今日、ここに来てくれたことには、ホントに感謝してる。
そのやさしさは、本物だって知ってるから。
都合イイかもしれないけど、そうでも思わないとやりきれなくてさ。
だってお前、何かあったのか全然聞かないだろ。
そんなんじゃ、承認欲求満たせないだろ。
それでもずっとそばにいてくれる。
ありがとな。
アイツは、俺からの友情を信じてる。
これは本当は、友情なんかじゃないのに。
承認欲求でもない。
アイツの家族がアイツを捨てて、ひとりぼっちになったことはとうに知っている。
今さら聞きたいことなんてない。
ただ、一緒にいたいと思っただけ。
これは、やさしさや同情ではなく、アイツの言う通り、愛なのかもしれない。
青空の向こうで、小さな雨雲が生まれようとしていた。
夕暮れの風を感じて、ほんの束の間、暑さを忘れる。
ホームで電車を待っていた。
「今日、会社でさ、部長が新人にキレちゃってさ」
後ろを通りかかったサラリーマン二人が、そんな話をしている。
会社ってのも大変なんだな。
大人達がキレたりキレられたり。
私はと言えば、バイトの面接を終えたところ。
感触は微妙。
でもまあ、まだ学生の身分の私は、働かなくても生活は出来る。
両親のもとで、寝るも食べるも困らず、単位を落とさないように根回ししておけばOK。
いずれ社会に出ていくその日のために、少し経験を積んでおくのも悪くないかなと思っただけ。
電車がホームに滑り込んでくる。
時間的に、仕事帰りの人達で車内は埋め尽くされている。
誰もが、今日を生きるために様々な活動をしたのだろう。
成功した人、失敗した人。
朝の時点では分からなかったその結果を携えて、たくさんの人達が夕暮れの電車に揺られている。
私はと言えば、もう少し敬語の使い方を覚えた方がいいかな、なんて反省をしつつも、でも、フレンドリーに話した方が心が伝わる気がするんだよな、なんて言い訳も考えて。
そんなに悪くない一日だった。
だいたい毎日、そんな感じ。
最寄り駅で降りて、自宅までの道のりを歩く。
風は弱まり、夜のそれに変わっている。
気温が低くなった分、のんびり歩くのが心地良い。
今日、会社で部長に怒鳴られた新人君は立ち直れただろうか。
学生の私のように、軽い気持ちで挑めるものではないのだろう。
これから、家族を持って支えていくことになるかもしれない。
…それは、私も同じか。
父や母の世話になれるのはいつまでなんだろう。
「自立」という言葉に耳を塞いでいられるのは?
今日の面接の反省点を考える。
やっぱり、敬語はしっかり使えるようにしとかないと、新人君が部長にキレられたのもそのせいかもしれないな。
勝手な推測とともに自宅に辿り着き、玄関のドアを開ける。
弱まっていたはずの風が一瞬強まって、背中から吹きつけたような気がした。
不安な気持ちに包まれた私の背中を押してくれるような風を感じて、小さな頼もしさとともに、家族に「ただいま」を告げた。
ほっぺたをつねったところで、それが夢の中なら痛みも感じない。
そしたら目を覚ますこともないし、「良かった、夢じゃない」とか安心するのはまだ早い。
宝くじが当たったり、受験に合格したり、告白した相手にOKもらったり。
それ全部、夢かもしれないよ。
目を覚ましたら、見慣れた現実が待っているかも。
まあ、勝負はいつだって現実で行うものだから、夢じゃなくて良かったパターンも多々あるけど、逆に「夢で良かったー」ってのも多い。
むしろそっちの方が身近に感じるほど。
大抵そーゆーのは、悪夢を見た時じゃないだろうか。
こんなんじゃもう終わりだー!とか嘆きながら目を覚まし、いつもと変わらない家族との日常の中にいることを理解した時の安堵感。
何度味わったことだろう。
全部、自分が作り出した夢なんだけどね。
いつの日か、自分が見たい夢を自由に見られるような技術が生まれるのなら、眠ることがより楽しみになって、その反面、目を覚ますたびに肩を落とすことになるのだろうか。
現実の日常に不安があるから悪夢を見るのでは?と思っているが、それすらも制御することが可能になれば、もはや夢の世界はパラダイス。
そんな世界も夢じゃない。
たぶん、きっと。
現実に戻れなくなる人続出!なんてニュースが出回るかもな。
だって、夢を見てる人にとって、その世界は現実でしかなくなる瞬間がある。
脳が認識したもので我々はモノを見てるから、それも当然と言えば当然。
さて、今自分が見ているものは、果たしてどっちなんだろうか?
いつだって、自分の進むべき道を決めるのは自分だと思っていた。
自分の心の羅針盤に従って、自由に生きているんだと。
でも実際には、周りの人達の言葉や、メディアに流れる情報、自分が置かれている現状を意識して、物事を決めてきたんだと思う。
影響を受けているにしても、その上で決めたのは自分だとも言えるが、もしもそれらの影響が無かったら、自分は同じ道を選んだだろうか。
まあ、何の参考情報も無しに、物事を決めるリスクだってある。
この情報過多時代、情報を制す者が世界を制すとも言える。
必要なアクションだったんだと思う。
ただ、ネットでモノを買う時の、ユーザーレビューやメーカー広告には流されないようにしないと、届いて箱から出した瞬間に絶望することもある。
最近では、AIロボット犬やサーキュレーター。
あんなフェイク動画を見せられたら、心の羅針盤も狂うってもんだ。
特に犬。
これなら猫と喧嘩もしないだろうし、犬と猫、どっちも飼ってると毎日楽しいんじゃないかなーなんて。
あぶない、あぶない。
いつだって、心の羅針盤は曇らせないように、狂わせないように、外からの情報を選別できる精度を保とう。
可愛い猫が三匹もいればそれでいいじゃないか。
私の心の羅針盤がそう言っている。
「それじゃあ、またね。元気でね」
君が右手を差し出した。
でも、僕の右手はポケットの中。
「またね、とか、またいつか、とかって、もう会うつもりのない相手に使う言葉じゃない?」
仏頂面で僕が言う。
「そんなことないよ。また会いたい、って心から思ってる。それがいつになるかは分からないけど、その気持ちは本当だよ」
君が右手をそっと下ろした。
心がチクリと痛む。
「もう少し、君が大きくなったらね、もっといろんな話が出来るようになったら、また会おうよ」
君は僕を見下ろして、僕の大好きな笑顔を見せてくれる。
でも今は、その笑顔が悲しくて涙があふれそうになる。
「その頃には、今のこの気持ちなんて忘れてるかもね。僕だって大人になるんだ。いつまでも君のことなんて…」
僕の言葉に、君は優しい笑顔のまま頷いて、言う。
「そうだね。君も大人になるんだよね。それが楽しみ。私のことを忘れてしまってもいいよ。きっとその頃には、お互いが違う幸せを見つけてるのかもね」
…そんなことない。
言おうとしたけど、何故だか言葉が出なかった。
電車が、発車のベルを鳴らす。
君が、本当に大好きだった君が、僕の目の前から、消えようとしている。
またね。
もう一度君がそう言って、大きな荷物を抱えて、車両に乗り込んだ。
ドアの向こうに姿を消した君を、僕はいつまでも見つめている。
君は、振り返らない。
いつだって君は、涙を見せない人だった。
走り去った電車を見送って、悲しかったけど、こんなところで悲劇の主人公を気取るのは嫌だった。
君とのたくさんの思い出が頭の中を巡ろうとするのを断ち切って、僕はホームを歩き出す。
だって僕は、大人になるんだから。
大人になって、君の期待に応えられるような大人になって、もしもまた会える日が来るなら、その時の僕にとっての幸せを君に伝えたい。
またね。
心の中で君にそう言って、僕は改札を抜けた。