『消えない焔』
この季節になる度に、あの日出会った小さな少年を思い出す。
「明日、父さんが死ぬんだ」
その言葉は、風のない夕暮れにぽつりと落ちた。
誰にも聞かれないように、だが、誰かに届いてほしいように。
私は何も言えなかった。
ただ、少年の瞳の奥に灯る小さな焔を見つめていた。
それは悲しみでも怒りでもなく、
言葉になる前の、名もない熱だった。
「おじさん、なんで人は死ぬの?」
「──……。」
「なんで、人はこの世に存在してるの?」
空に放たれた火の粉のように夕焼けは赤く燃え広がっていた。
「………父さん!早く帰ろー!」
「………あぁ。」
あの時の少年は今何をしているのだろう。
学生だった俺は、彼に何もしてやれなかった。
『秋風』
駅のホームにぼんやりと立ち尽くしていた。
ひんやりとした冷たい風に一瞬身震いし、私は羽織っていたブレザーを握りしめた。
どこか人肌寂しくなる季節に移り変わる景色
私だけが置いていかれている気さえして、冷えた手を握りしめた。
帰りの田んぼ道、揺れる穂で埋め尽くされた黄金の海に私は目を奪われた。
茜色に染まる空に、東の空には尾を引いた星が小さく輝いていた。
──レモン彗星だ……
千年越しに届いたその光は、私の目に焼き付いて離れなかった。
『梨』
縁側に座ると、秋の心地よい風がすっと通り抜けた。
祖母が持ってきた籠の中には梨が三つ並んでいた。
じっと、見つめていると朝露が反射し、きらきらと輝いていた。
「……。丙年の日、天下に認して、桑・紵(から
むし)・梨・栗・蕪菁(かぶら)などの草木を植えることを勧め、五穀を助けるよう命じた──……。」
「?」
弟が不思議そうに私を見つめた。
弟の口はまるでリスのやうに膨れ上がり、私はついふっと息を漏らしてしまった。
少し不満そうにもごもごと言っているが、その姿さえもリスのようだった。
「ごめんごめん、日本書紀の、日本語訳。最近読んだばっかなの。
持統天皇、飛鳥時代の天皇さんが、桑と、からむしと、梨、栗、かぶらを育てなさいっていう、意味。」
「ふーん。
……飛鳥時代……その時からこの味だったのかな」
「多分それは、違うと思う……。」
「そうだよな。
……んー、やっぱばあちゃんの梨は美味いな。
姉ちゃんは考えすぎ。」
弟は梨に夢中になり、歴史の話はもう興味無さそうだ。
上機嫌で梨を食べ、そして喉をつまらせ勢いよくむせてる弟を横目に私はため息をつき、1口梨をかじった。
しゃりっとみずみずしさが口の中で広がり、少し乾燥した口の中を潤わせ、あまい香りが私を包んだ。
「……美味しい。」
『LaLaLa Goodbye』
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La luna canta.
La luce incanta.
La notte si ammanta.
Goodbye
月は歌い
光は魔法をかけ
夜は静かにヴェールをまとう
神があなたと共にあらんことを
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1枚の手紙がポストの中に入っていた。
だが、差出人も宛先も住所も何も書いていなかった。
綺麗な封筒に、金の刺繍が施されており並の手紙ではないことは分かったが、招待状にしては妙であり、そして、なぜ私のような人にこんなに立派な手紙が届くのかが疑問だ。
手の凝ったイタズラだと思うことにし、私はため息をつき部屋へ戻って行った。
部屋へ戻っても閉まりきったカーテンにその隙間から少しの光が漏れるだけで、真っ暗であった。
私に朝が来ることはなくて、永遠に夜のままだ。
私は机の上に手紙を置いたまま、椅子に腰をかけた。
部屋の空気は冷たく、この無機質な時計の針だけが一刻一刻を私に伝えた。
封筒の金の刺繍はこの暗闇の中でも静かに光り、私はそっとなぞるようにその刺繍に触れた。
何となく懐かしいような、そんな感じがした。
私は知らない間に眠りにつき、そのまま突っ伏して寝てしまっていた。
目を覚ますとそこには手紙はなく、小さな鍵が置いてあり、それは無くしていたオルゴールの鍵であった。
私は引き出しの奥深くに眠っていたオルゴールの鍵を開け、そっとネジを巻いた。
小さい頃によくおばあちゃんが歌っていた、子守唄が流れた。
私は一つ一つの音を確かめるように小さく口ずさみ、微かな記憶を追いかけた。
なんとなく窓を開けると、そこには満月が夜を照らし、そして、カーテンを揺らした。
「La voce della notte mi chiama...」
夜の声が、私を呼んだ。
私は1本足を前へと踏み出した。
『どこまでも』
果てしなく続く空。
雨上がりの空には無理やり差し込んだ光が濡れたアスファルトを照らし、空だけは晴れたふりをしている。
濡れた靴を脱ぎ、裸足になり海辺を駆け抜け、制服には砂が着いてしまったがそれでも私は走り続けた。
地平線が見える海は私をどこまでも連れて行ってくれる気がし、私は歌を歌った。
溢れ出る涙に、しゃくり上げる声に歌が混ざり合い、
海の香りはしょっぱく、そして、雨上がりの海は冷たかった。
その冷たさは私を包み込み、海の音が私の心を優しく抱きしめた。
声が震えても、涙が混ざっても、歌は私の中から溢れ出た。
波は足元をさらっては引いていき、砂の上の足跡は瞬く間に私を置いていき、私の涙の跡も波は優しく拭った。
びしょびしょになったスカートを搾り、私はすっかりと乾いたアスファルトの上に跡を残した。
雲の切れ間から覗く光は私を照らし、道路に浮かぶ水たまりに星を映した。
風が髪を揺らし、濡れた頬を撫でた。
私は、どこまでも、歩いて行ける。
ある哲学者は言った。
楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ。
人は幸せだから歌うのではない。
歌うから幸せなのだ。