『行かないでと、願ったのに』
行かないでと、思わず言ってしまった。
悲しそうに眉を下げて笑うと何も言わずに私の頭を撫でた。
ごめんね、と何度も何度も繰り返し、そして、彼女の目には涙がみるみる溜まっていった。
涙声になりながらも何度も私の名前を呼び、抱きしめ、そして
その次の日、お姉ちゃんは死んだ。
お姉ちゃんの枕元には、お姉ちゃんの大好きなオルゴールが流れていて、お姉ちゃんは、笑っていた。
お母さんは嗚咽を漏らしながら、姉のやせ細った身体を抱きしめた。
お父さんもハンカチを目元に当て唇を噛み締めていた。
真っ白な手に真っ白な頬。
お姉ちゃんの弾くピアノは温かくて、優しくて、大好きだった。
「おねえちゃん、まだねてるの?」
私の手をぎゅっと握っている小さなその手は温かくて、そして、何も知らないその子はただ純粋に私を見つめた。
「……うん。ちょっと、ながいお休みをするみたい。
だから、おやすみなさい、いい夢見てねって、挨拶しようね」
「やだ!まだ、おはなしが、とちゅう、なの!!」
「……っ、ごめんね、私が、読むね……」
「やだ、ねーねじゃないと、やだ、やだよお、ねえね、おきてえ……」
普段滅多に泣かない弟もわんわん泣き、私はお姉ちゃんの手を握った。
もうその手は、二度と握り返してくれることはない。
私はもうすぐ、お姉ちゃんの歳を超える。
母親も父親も心の整理がかなり出来たようで、最近は笑うことが増えた。
弟は姉のことをあまり覚えてないからか、今も元気におもちゃの飛行機を振り回しては母親に怒られ、メソメソしている。
そんな時、小さなボロボロな猫が家の前に現れた。
ミー、ミー、と弱々しい声で鳴き、何かを必死に訴えかけているようだった。
真っ白な優しい毛並みはまるで、姉の──
そっとその白猫を抱きしめると子猫はミィと、小さく鳴き、すりすりと顔を埋めた。
『ただいま』
「……もう、二度とどこにも行かないで」
今度は、この願いが叶いますように──
『凍える朝』
“おはよう”
彼女はもういない。
彼女の太陽のような温かな笑顔はもう見れない。
柔らかな微笑みはもう遠くへと霧散した。
彼女はもう二度と朝を迎えることはなくて
永遠に明けない夜を唄い、ギターを奏で、花が咲くように笑うあの子と一緒に手を繋いで歩いているだろう。
心が氷のように冷たくなるのを感じる。
温もりを求める手は空を切り、ただ私はこの手を抱きしめることしかできない。
彼女を失い、小さな温もりも次第に温度を失い、枯れた花には霜がおりていた。
「───ぱぱ、あいしてる
ままも、あいしてる
だから、なかないでね」
掠れた声でそうつぶやく声は悲しそうだった。
握っていた手は力を失い
この子も、還ってしまった。
彼女が残した小さな結晶も解けてしまい
もう伝えたい言葉は誰にも届かない
喉が潰れるまで泣き叫んでも、もう二度と私の名前を呼ぶことはない。
もう二度と彼女の歌声を聞くことはできず、私はただ、冷たくなったこの子を抱きしめることしかできない。
私も愛している。
この言葉が言えたら
この凍ったような朝は幾分か温かかっただろうか。
私にはもう、凍えた朝しか来ないだろう。
『そして、』
そして、ある人はいった。
このミカンは私たちと同じだと。
訳が分からなかった。
私は思わず顔を顰め、その人はまるで子どものようにケラケラと笑った。
私はムッとし口を尖らせた。
このミカンが私らと同じなわけが無い。
その上、結論にたどり着くまでの証明が一切ない。
なぜミカンは私たちと同じなのだ。
その人は今度は小さく、悲しそうに笑った。
ミカンも私たちも同じこの地球の生物だ。
そして、この地球の頂点に君臨していると思っている私たちだが、傍から見れば違うかもしれない。
この世界の半分以上は虫が占めている。
つまり、この星を支配しているのは我々人類ではなく、虫なのかもしれない。
その人は先程捕まえた蝶の羽を観察し、そして数秒後はその蝶を外へ離した。
すまない、話がそれた。その人はフッと息を吐いた。
つまり、私が言いたいことはみかんと私たち人間は皮をかぶり生活していることだ。
外皮という皮、感情という皮、性格という皮、アイデンティティという名の皮、なんなら猫をという皮を被っている人間もいるではないか。
みかんも皮をかぶり生活している。
その結論、人間はみかんと同じだ。
皮を剥かなければその人の本性は見えない。
本当はこんなに甘くて美味しいのかもしれないのに、逆に酸っぱくて果物のはずなのに喉が渇くような代物かもしれない。
だが、一つだけ違うところがある。
人は人の皮を剥かない。
それは何故かって……愚問だな。
この皮を剥けるということに気づかないからだ。知らないからだ。
その人は本日5個目のみかんに手を伸ばした。
『tiny love』
真っ白な部屋にぽつんと置かれた椅子
それは誰も座ることは無いけれど、誰もその椅子の存在に気づかないけれども、ふとした瞬間に特定の人にだけ見ることが出来る。
そしてその椅子に腰かけてゆっくり呼吸をするのだ。
『おもてなし』
彼女は月の光を集めてお茶を淹れました。
客人は誰でもない、通りすがりの風の精です。
彼女は言葉を発する代わりに静かに湯気の立つ器を差し出しました。
そのお茶は、まるで溶けるような温かさ。ほのかに甘い香りが辺りを包み込みました。
彼女には帰れる家がありませんでした。
だから彼女は、誰かを迎え入れるためではなく、ただ静かに、誰かの帰りを待ち続けるのです。
かつて、自分が帰りたかった場所を懐かしむように、彼女の瞳の奥にはどこか悲しみが灯っているようでした。
彼女は何も発しませんが、そのお茶は彼女の優しさで満たされています。
夜の空には今にも落ちてきそうなほど溢れかえった星が、彼女の言葉の代わりに貴方を、『おもてなし』します。