『ティーカップ』
温かなミルクティーの香りが鼻をくすぐり、小さな部屋に午後の温かな光が差し込んだ。
ティーカップの縁は少しだけ欠けていた。
湯気の向こうは誰かの笑い声で揺れており、彼女の目はいつも下を向いていた。
私はいつも泣きそうな顔をしている彼女にとって少しでも安らかな時間を与えたい。
そして、私がどれだけ色を失ってもそばにいてくれる彼女には恩返しをしたい。
私は、彼女の思い出だけは零さないようにそっと蓋をした。
『寂しくて』
寂しくて誰かの温もりを求めてしまう。
そんな自分が嫌で自身に罰を与え、自身に赦しを乞う。
人々はそんな私を見て邪険に思う。
タコだって、自分の腕を噛むことがある。
なのに、なんで私が噛んだらダメなのですか。
スマホの画面が光るたびに、誰かじゃないことに安堵し、誰もいない小さな部屋に1人、ため息を着く。
タコが墨を吐いて逃げるように、私は言葉で逃げる。
その度に苦しくて、胃がぐるぐるして、頭がおかしくなりそうになる。
喉が閉まり、呼吸がしずらくなり、どれだけ手を伸ばしても触れられない。
次の日、会社へ行くと、私の好きだったプリンが置かれていた。
“せーんぱい、お疲れさまです!
このプリン、私が作ったんです。
先輩最近追い詰めてませんか?甘いものでも食べて、少しでも気を休めてもらえたらなーって。よかったら食べてください。“
私はくすりと笑った。
──あぁ、いつぶりに、わらっただろうか。
ハッとして、振り返ると、あの小さな後輩がいたずらっ子な顔をし、小さく手を振っていた。
『心の境界線』
「ごめんね。」
彼女は困った風に眉を下げ、じっと彼を見た。
彼女は誰とでもすぐに仲良くなり、打ち解け、心を開いているように見せるのが上手だ。
本音の建前で表情を誤魔化し、彼女はいつの間にか目の前から消える。
私たちの心を無意識に掻き乱し、まるで翻弄しているかのように弄び、そして、ぐちゃぐちゃになった私たちに手を差し伸べ、何も知らない彼女は微笑む。
彼女の優しさは盾と矛だ。
甘くて苦しい蜜のようで、こちらから距離を取れば彼女は何食わぬ顔でそばを離れる。
慌てて彼女を引き止めれば、顔だけ振り返り、彼女は常に前へ進んでいく。
一度、手を離してしまえば、止まることはあったとしても、私の横に来ることはもう二度とない。
でも、彼女は私たちに、「好き」と言う。
『透明な羽根』
僕が泣いていたのは、風のない午後だった。
空は晴れていたけれど、僕の中には雨が降っていた。
何もかもが重くて、何もかもが遠くて、
それでも君は、黙って僕の隣に座った。
誰にも気づかれない僕を、君だけが知っていた。
僕の背中に触れている君の手は、涙で濡れた羽根を、そっと包むような温もりだった。
「行こう」
君は僕の手を引いた。
笑っていた。
その笑顔は、まるで空の色みたいだった。
君の透明な羽根はもう、ボロボロで、傷だらけだった。
もう二度と飛べないと、君は言った。
それでも君は、僕の前を歩いた。
風を切って、光の中へと進んでいった。
そして、君は舞い上がった。
誰よりも高く、誰よりも美しく。
陽の光はもう応えてくれない。
僕は立ち尽くした。
君の軌跡だけが、空に残っていた。
僕の羽根はまだ濡れていたけれども、まだ、君の温もりが微かに残っていた。
風が吹き、僕の羽根は微かに揺れた。
『時を止めて』
真っ暗な深海に沈む心は音もなく、ただ揺れていた。
ひとすじの光が水の粒を優しく染め、時は止まり
希望が、静かに息をした。
「光あれ」と。
ただ音もなく水を震わせ、誰かが泣く声が聞こえてくる。
天は初めて地を照らした。
それは、まだ、誰も知らない物語。