quiqui . ✴︎*

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2/21/2026, 4:53:24 AM

- 同情 -

「ああ、分かっているとも。君はあの若い男にさぞご執心のようだからね」
 薄暗くて怪しい財宝の光が鈍くひしめくこの地下で、私はそう言い捨てた。どの家具も、調度品も、私の手によってあつらえられた究極のマスターピースなのに、私の顔に畏れをなしたのか、生みの親である私が触れても手のひらにはちっともなじまなかった。それでも良いと、それが私の運命なのだとこの数十年間で痛いほど納得していたはずだけれど、目の前の彼女のせいで全ては破茶滅茶だった。感情のままに掴んだ緻密な木細工のざらつきが、私の肌に必死で抵抗している。私の子供たちのこんな仕草には慣れていたはずなのに。どれもこれもお前のせいだ。まだ未熟で、私には持ってない純粋さを兼ね備えた、この忌まわしい少女に!オペラ座の怪人と謳われたこの私がひどく狼狽させられているのだ。
「ごめんなさい、あなたの気に触るようなこと、私…するつもりは……」
 目の前の────クリスティーヌ・ダーエはひどく怯えた瞳で、震えるように両手を重ねて、私を見上げた。こんな時でも、彼女は教会のステンドグラスを前に祈るように、必死になって、私を崇めている。逃げ出したいほど恐ろしいはずなのに、私を音楽の天使と信じてやまない彼女のその願望が、私を聖なる者へと昇華させる。手は血で染まり、醜い顔は仮面で押し隠さねばならない、こんな私を、クリスティーヌは死んだ父親からの贈り物だと、いまだに本気で信じているのだ!馬鹿みたいに縮こまる彼女は、さながら都会に流れついた哀れな野良の子猫のようで、ちょっとした圧で潰れてしまいそうだった。
「なら」
 澱みなく私は言葉を連ねた。この顔を代償に、天は恐ろしいほどの芸術の才能を私に降り注いだので、私の声には誰もを従わせることができる魔力があった。歌うように、さながらレチタティーヴォのように語りかけるだけで、どんな憎らしい人間も恍惚とさせることができた。もちろん、私の顔を見ようものなら、その魔力は一瞬で泡のように弾けるのだが。今は仮面が私の引き攣った顔を覆い隠してくれていた。
「私のためだけに歌い続けるんだ、クリスティーヌ。君の歌を羽ばたかせられるのは、私だけなのだから………」
 果たしてこんな風に彼女を自分の能力で押し潰すように、従えさせるのは正しいことなのか、分からなかった。クリスティーヌは私の声の微細な音階に一瞬肩を震わせたが、また私を薄い水が張った瞳で見つめ続けるだけで、肯定も、否定もしなかった。彼女には自分の過ぎた能力が効かないようで、また私は癇癪のままオルガンを拳で叩いた。途端に地下室が震えて、割れんばかりの大きい音色が響き渡る。どうして私はこのように激情を操れぬ人間になったのだ?せめて顔だけ、それだけが人生の汚点で良かったのに…………
「………もう休みなさい」
 私は彼女に背を向けたまま、力が抜けてオルガンの椅子に腰掛けた。彼女を遠ざけておかないと、きっとまた私は恐ろしい感情を彼女に打ち当ててしまうだろう。背中を丸めて、震えながらオルガンの鍵盤を抱え込むように、身をすくめた。いつからこうなってしまった?才能をうまく使いこなせない、声が澄んだ美しいいたいけな彼女を見てしまった時からか?そのまま彼女に近づいて、彼女を導く者を自称してしまったからか?彼女に仮面を外した姿を見られてしまった時からか…?いや、そもそもこの世に生を受けてしまったこと自体が、私の間違いだったのだ。初めから分かっていたことだ。あのまま、生まれながらにして奇怪な姿で地上に堕とされた私を、誰かが殺してくれていたら。クリスティーヌに会うことも、若き求愛者に心を許す彼女も、見なくて済んだのに……
「エリック、」
 か細い調べと共に、細い冷えた指先がそっ、と私の打ちひしがれた背中に触れるのが分かった。相変わらず恐々としたその手つきは、私の神経を逆撫でた。だが彼女が一歩踏み出して、私の横にぺたんと跪いて、片手で握りつぶせそうなほど小さな頭蓋を私の膝に擦り寄せてからは、逆立っていた感情は一瞬で消えてしまった。オルガンと、私の膝の間に頭を差し込むようにして、クリスティーヌは私に身をもたげる。細くて軽い巻き髪が、私の足をくすぐった。
「私……どうしていいか、分からないわ………」
 自分でも、正解が見つからないの。そう言ってクリスティーヌは私を見上げて、細くて可憐なつやつやとした指を、私の頬に触れさせた。ちり、と爪先が仮面を掠めて、私は一瞬身体を強張らせる。抉れた私の鼻を、彼女の馥郁とした、汚れを知らない花のような香りがくすぐった。以前のように仮面を取り去ることはせず、辿々しくも優しく、クリスティーヌは私を撫で続けた。その目から恐れの感情が全く消え去っていたわけではないが、深い哀しみと、戸惑いと、憐憫の色が、渦巻いていた。息を呑んだ。怒りや蔑みの感情を向けられたことは多々あれど、こんな風に穏やかに、長い間に見つめられたことは今まで一度もなかったからだ。たとえそれが、同情という形でも────
「エリック、私……」
「何も言うな」
 私は堪らず彼女の言葉を制した。今彼女は、怪人でも、オペラ・ゴーストでも……音楽の天使としてでもなく、ただのエリックとして、人間として私を見据えていたからだ。仮面越しでも皆が恐ろしがる私の顔を、クリスティーヌは柔らかく撫で続けた。私も思わず、彼女の髪を撫でようとするが、それこそ禁忌的な行いであると、思いとどまった。清廉な彼女に、本来私は近づいてはいけないのだ。それでも身を寄せる彼女を拒否することもできなかった。とうに崇めることを諦めた神に、心の中で語りかける。彼女こそが本物の天使だった、と。私はいつの間にか涙を流していたようで、その雫がクリスティーヌの指先を濡らした。

2/10/2026, 1:31:59 PM

- 誰もがみんな -

誰もがみんなあなたのことを愛しています
そんな誰よりも私はあなたの美点を知っております
ですが悲しいことに、他のみんなもそう思っているのです…………
私だけにあなたの秘密をください

2/10/2026, 8:49:59 AM

- 花束 -

花瓶に生けた花は全て散ってしまったけれど
その花びらが風に乗って、あなたの元へ行くのが見えたよ
やっぱりあなたの方が花に囲まれるのにふさわしい人だと思ったよ

2/6/2026, 12:59:06 PM

- 時計の針 -

これは時針 これは分針 これは秒針 これはミリ秒針 これはマイクロ秒針 これはナノ秒針…………時の狭間にあなたの場所はありません

2/5/2026, 3:00:41 PM

- 溢れる気持ち -

思わずえずく。吐き出した。金魚だった。僕の足元に水溜りを作って、悠々自適に泳いでいた。黄金色に輝く鱗が、つやつや光っていた。あなたの金魚の糞になりたかった。

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