世界は一度海に沈んだ。
ノアの方舟に限らず洪水伝説は世界のあちこちにあるらしい。
それが本当だとしたら、海の底に沈んだ街にかつて生きていた人達はその瞬間、何を思っていたのだろう。
降り続く雨、上昇し続ける海面、徐々に少なくなる陸地·····。迫り来る世界の終末を感じながら、波にさらわれ、海に沈んでいきながら、誰を思っていたのだろう。
もしまたいつかその時が訪れるなら、大切な誰かと過ごせたらいいのに。
END
「海の底」
ノックの音に顔を上げる。
「あぁ、いたいた。あのさぁ、ちょっと教えて欲しいんだけど」
機械オンチの同僚は時々こうしてやって来ては、仕事に使うツールの操作方法を教わろうとする。
こちらとしてもそれは別に構わないから、来る度に教えてやる。
「ありがと」
そんな事を何度か繰り返していたある時、ふと浮かんだ疑問。
「わざわざここまで来なくても隣に聞きに行きゃいいんじゃねえか?」
隣の部署には学生時代からの共通の友人がいる。わざわざ棟の違うここまで来なくてもコトは足りる筈だ。そう問うと、同僚は天井を見上げ何か考えるような仕草をして、聞こえない声でなにごとかを呟いた。
「あ?」
「·····何でもない」
顔が赤い。
体調でも悪いのだろうか。
「迷惑ならもう来ないよ」
「迷惑ってことは無ぇけど·····」
「とにかく助かったよ。教えてくれてありがと」
「·····ああ」
しばらくして、俺は思い知ることになる。
自分の鈍感さと、同僚の不器用さを·····。
END
「君に会いたくて」
祖母が死んだ。
誰からも人格者、良妻賢母と褒められた祖母だった。
夫を立て、子には厳しく、孫を慈しみ、友人を大切にした祖母だった。
母と共に祖母の遺品を整理していると、一冊の分厚い手帳が見つかった。鍵付きの古い手帳だ。家中を探したが鍵は見つからない。
色褪せたそれを開ける術が無く、母と私はしばらく顔を見合せてどうしたものかと思案したが、捨てるのも偲びなかったので私が持って帰ることにした。
あれから一ヶ月。
私は手帳を前にカッターナイフを握る。
色褪せたその手帳がどうしても気になって、中を見たくて我慢出来なくなったのだ。
人格者と言われた祖母。
良妻賢母と言われた祖母。
非の打ち所が無いと言われた祖母。
そして、祖母のように讃えられたりはしないが朗らかで〝善良な〟母。
――ならば何故、孫の私は〝こんな〟なのだろう。
祖母にだって一つや二つ、シャツについたシミのような汚点があった筈だ。誰にも言えない黒歴史がある筈だ。ならばこの、鍵のかかった手帳に、きっと。
私は手帳のベルトの部分にカッターナイフを突き立てる。ようやく開いた手帳の中には、びっしりと、祖母らしい几帳面な字で、
黒歴史と言うにはあまりに残酷な物語、が。
綴られていた。
END
「閉ざされた日記」
木枯らし一号が吹きました。
初霜が観測されました。
春一番が吹きました。
桜の開花が宣言されました。
流氷の漂着が確認されました。
梅雨入りです。
私達はいつまでこれらを見聞きすることが出来るのだろう。もう既に無くなってしまった気象の観測対象がいくつもあるという。
少し寂しいと、感じてしまった。
END
「木枯らし」
美しいとはなんだろう?
美しい声、美しい容姿、美しい立ち振る舞い。
美しい海、美しい花、美しい景色。
美しい数式、美しい建築、美しい仕草。
美しいという形容詞がつく言葉はたくさんある。
例えばもし、人を殺すことが美しいと讃えられる世界があったら、私は人を殺せるだろうか。
それが普遍的な価値観だったら、出来てしまうのだろうか。
そこまでつらつら考えて、その言葉の普遍性と無言の圧が、初めて怖いと思った。
END
「美しい」