「好きな本があるんだ。今までもこれからも僕の隣にいるんだろうなあ、と思うくらいに好きな本が。その本を初めて読んだ時、僕は酷く感動した。そして、同時にこう思った。僕もこんな風に誰かを感動させてみたい、って。」
夢がないと嘆いたわたしに見せてくれたクラスメイトの夢は想像以上に壮大だった。四角の眼鏡、成績は常に上位、愛嬌は振りまかないけれど愛想が悪いわけではない、孤高の優等生タイプ。そんな彼は現実主義者なのだと思い込んでいたところがあった。だからこそ、そう語った彼の輝いたあの目が今でも忘れられない。
本屋に寄ったのはただ暇を潰すためだけだった。久しぶりに会う約束をしていた中学時代の友人が、寝坊で遅れると、待ち合わせ時間の五分前に連絡を入れてきたのだ。
若干の怒りを覚えながら、カフェや近くのショッピングモールに入らず、本屋を選んだのに理由はなにもなかった。
けれど、早々に入店したことを後悔した。
分厚い文庫本やどこかで見たことがあるようなタイトルの単行本。隅から隅まで本で埋め尽くされている。
わたしは、あまり本が好きではない。だからといって、運動やゲームが好きなわけでもない。じゃあ、なにが好きなのかと聞かれると、自分でもよく分かっていない。
そんな曖昧な人間のまま、二十八年も生きてきた。きっとこれからも変わらないだろうと思う。そのことに少し虚しくなった時に思い出すのが、高校時代のクラスメイトとの会話だ。
どうしてそんな話をしたのか、全く覚えていない。ただ、あの時のわたしは泣きそうで、逆に彼は少し興奮していた。放課後の教室だっただろうか。長く伸びた自分の影も覚えている。自分の夢を、曇りのない目で語ってみせた彼のことを、あれから十年ほど経った今でもはっきりと記憶している。
彼は夢を叶えたのだろうか。
ふとした疑問が浮かび上がり、わたしはそのまま本屋の中へと入っていくことにした。
「じゃあいつか、君の名前を本屋さんで見る日が来るかもしれないんだね。」
高校生のわたしの鼻声が脳内で再生された。
「いや、それはないな。」
「なんで?」
「だって僕はペンネームを使っているから。それに、顔も出さない。覆面作家としてやっていくつもりなんだ。」
「え、じゃあ、どうやったって見つけられないじゃん。」
「いや、きっと君は見つけられるだろうな。そんな気がする。なあ、見つけてみせてよ。」
記憶の中の彼が笑った。彼は笑うとえくぼができるのだと、その時初めて知った。
なにかに引っ張られたように、足が止まった。一人の作家の特集コーナーの前で。
あじさいが咲いていた。
通学路のすぐ傍にある公園の花壇に。
とても綺麗な色だと思った。透明なビニール傘をくるくると回しながら、学校へ向かう。
あじさいの鮮明な青色、紫色、赤色。
もうあじさいが咲く時期かあと思う。きっと、来年も同じことを思うのだ。一年が経っても大して変わらないわたしが簡単に頭に思い浮かぶ。
あじさいがいなくなったら、次は蝉が現れるだろう。そして、あっという間に紅葉の季節になって、それも知らぬ間に散っていく。
人生はとてもハイスピードで進んでいく。見落としていることがきっとたくさんある。だから、あじさいに気付けてよかったと思う。
「おーい!」
駅前で大きく手を振る友人を見つけた。周りの目など気にせずに大声で人を呼べる彼女が羨ましいけれど、今はすこし恥ずかしい。小さく手を振り返しながら、彼女にどんどん近付いていく。
駅の床は濡れていて、いつ滑って転んでもおかしくなさそうだった。
改札を二人で通り抜けて、人の波をなんとか泳いでいく。
「あじさい、咲いてたよ。」
電車の中で押し潰されそうになりながら、友人に言った。
音楽が好きな彼女はいつも耳に黒のイヤホンを差し込んでいる。けれど、彼女はいつもわたしと並ぶ時、肩が触れる方のイヤホンを外してくれている。
それに今、気が付いた。
友人が口角を上げた。
それに気付けるわたしでよかったと思う。
好き嫌いが多いわたしは、いつも料理を作ってくれる彼女の顔を歪ませる。
「ねえ。」
不機嫌そうな彼女の声が、扇風機の風音だけが響くリビングの生温い空気に伝わった。
「なに?」
なにを言われるかはわかっているけれど、気付いていないフリをする。そんなことを毎日している。
「その端っこに寄せられてるものはなに?」
「だって、グリーンピース好きじゃないもん。」
わたしの言葉に返ってきたのは、彼女の深いため息だった。
「あんたさあ、作ってる私に失礼だと思わないわけ?」
彼女もこの言葉を毎日繰り返している。お互い、よく飽きないものだと、わたしは他人事のように思う。
「嫌いなものは嫌いなんだから、仕方ないじゃない。」
嫌いなものは嫌い。そんな自分の言葉に自分で頷く。
職場の上司も嫌い。虫も嫌い。他所の家から聞こえる笑い声も嫌い。SNSで自慢を繰り返す、いつかの同級生も嫌い。グリーンピースだって嫌い。彼女の好きな人も、嫌い。
チキンライスの中には嫌いなグリーンピースや人参も入っている。人参は頑張って飲み込んでいるのだと、彼女は気付いてくれない。
「やっぱり、食生活が合わない人と同居するもんじゃないわ。」
彼女はそう言って、コップ一杯に入っていたビールを飲み干す。
彼女の口元についた泡が膨らんで、消えていく。
彼女の好きな人は、彼女と食の好みが同じなのだろうか。彼女はこんにゃくが嫌いで刺し身も嫌いで、ついでに濃口醤油も嫌いだけど、その人はそのことに気付いているのだろうか。
「わたしだって、好きなものはあるもん。」
「あっそ。」
彼女の素っ気ない言葉さえ、わたしには美しいものに聞こえる。酔っ払うと彼女の頬はかすかに赤くなって、耳は真っ赤になる。わたしが嫌いなものは料理にふんだんに入れるくせに、自分の嫌いなものは一切入れない。わたしは洗濯と掃除を毎日しているのに、彼女は一つもお礼を言わない。なのに、わたしから彼女へのお礼は強要する。そういうところも含めて大好きなのに、彼女は気付いてくれない。
この同居生活がまだ終わらないように祈りながら、スプーンでグリーンピースをすくったわたしにも、彼女はやっぱり気付いてくれなかった。
目を開けると、そこには朝日の温もりに包まれながら眠っている彼がいた。
窓の隙間から入ってくるわずかな風に揺れるカーテン。テーブルにはお酒の空き缶やスナック菓子の袋が転がっている。キッチンのシンクにはきっと洗い物が溜まっていて、お風呂だってお湯を張ったのに、結局入らなかった。月曜日から当たり前に始まる仕事とか満員電車とか、近くからする工事の大きな音とか、憂鬱になることは山ほどあるけれど、朝日の柔らかな光とともに、やすらかに眠っている彼を見ると、もうどうでもよくなった。
彼の右目の右下にあるほくろ、頬に広がる薄いそばかす、昔はピアスホールが空いていた耳、少しかさついた唇、遠慮がちに顔を出すひげも、何もかも愛おしくて、なぜか涙が溢れた。
今は起きないでほしい、と祈りながら、さらさらの黒髪をわたしの指に絡める。
寝起きの顔でボサボサの髪で泣いている恋人なんて、誰も見たくないし見てほしくないだろう。
起きないで、と願いながらも、彼のほくろや唇をなぞる。彼がくすぐったそうに動く。わたしの涙は止まらなかった。
しばらくして、彼が目を開いた。真っ黒だけど、いつまでも煌めきを失わない瞳。それにわたしは一瞬吸い込まれてしまったかのように、息を呑んだ。
「なんで泣いてるの。」
限りなく優しい声で、けれど寝起きだから少しかすれた声で彼が言う。左手でわたしの手を包んで、右手でわたしの身体を抱き寄せる。乱暴じゃなくて、むしろ優しくて丁寧すぎるその仕草が、そして彼が愛おしくてわたしは彼の胸の中で泣いた。
「もし、世界の終わりがすぐそこまで来てたらさ、最後ぐらい君とキスをしたいよね。」
コンビニのカフェオレは最近進化しているらしい。愛飲している彼はわたしにそう教えてくれた。
ストローを噛む癖はいつになっても治らない。彼は歯形がついたストローを見て「またやっちゃった。」と言う。それを聞くのはもう何回目なのか分からない。
「きも。」
「知ってる。」
彼が吐く言葉はいつもわたしの鳥肌を立たせる。
気持ち悪い、と素直に言えるのは、付き合いが長いからではなくて、彼がわたしに好意を持っていないくせにそういうことを言うからだ。
わたしは、お試しでしかない。彼は本命にどんな言葉を伝えるかいつも一生懸命考えて、毎回気味の悪い言葉を編み出す。そして、わたしに言って反応を見るのだ。わたしの反応はどんな時も変わらない。だから、彼が本命にその言葉をかけることはない。本当は彼も分かっている。そんなことを考えるのは無駄で、わたしで試してみるのも無駄で、結局はなにも意味のないことなのだと。それでも彼は必ず新しい言葉を作り出す。そのたびにわたしは馬鹿だなあと思う。
「ヘタレ。」
「知ってる。」
「さっさと告白してフラれてきたら?」
「うるさいなあ。」
「ばーか。」
「それはただの悪口だよね!?」
思わず唇の隙間から笑い声が漏れた。そして、彼も呆れたように笑う。
「彼女、今頃男とデート行ってるんだろうね。いいなあ、わたしも人生で一回ぐらいは高級レストランに行ってみたいよ。」
「ぼくの傷口に塩を塗る必要ある?」
彼が一生懸命言葉を考えている間、彼の本命は男をとっかえひっかえして、ブランド物のバッグやアクセサリーを買ってもらっている。
本当、こいつは馬鹿だと思う。真の馬鹿野郎だ。
そして彼女はあと数時間もしないうちに、金を広げて笑うような男と一緒にホテルに行くのだろう。
さすがにそれは言わないであげようと思った。わたしだって必要以上の塩を持ちたくない。
「世界の終わりがもうすぐ来るならさ、キスする時間もったいなくない?」
「へ?」
「わたしなら、手繋いでお互いに寄りかかって眠って、気付かない間に死にたい。」
彼の部屋はとても狭い。ベッドとテーブルしかないこの部屋で、わたし達は今二人きりだ。
彼の手はカフェオレのカップを持っていたせいで少し濡れたまま、テーブルに放り出されている。
あれを掴んで、二人眠って、世界が終わるのなら本望だ。