「この場所です、私の父が人を殺したのは」
独白。そんな言葉がこれほどまでに似合う状況に、わたしは出くわしたことがなかった。何も言えずに、彼女の次の言葉を待つ。
「私が中学生のときでした。私は私立の中高一貫校に通わせてもらって、いつも帰りが遅かったんです。両親に防犯ブザーをかばんにつけるように言われて、恥ずかしいと思いながら従っていました。」
彼女はどこか一点を見つめていた。わたしなんてここにはいないかのように。
「けれど、実際に変質者に出会ってしまうと、もう頭がパニックになってブザーを鳴らすなんていう冷静な判断ができなくなるのだと、私はあの夜に知りました。暗い顔で家に帰った後、何も言わずに部屋にこもり咽び泣いた私を、両親はどう思ったのでしょうか。あの夜私が一生抱えなければいけなくなった傷を、それをつけた人間をふたりがどう知ったのでしょうか。当事者なのに私は何も知らないんです。」
彼女は一瞥もわたしにくれないまま、拳を強く握っていた。骨が浮き出た手に、青い血管がよく見えた。
「それから1ヶ月ほど経ったころ、家に帰ってもふたりは家にいなくて、私は不安に思っていました。なにかよくないことが起こっているような気がしたんです。家族がいない家ほど無機質なものはなく、焦りさえ感じるものはありません。」
彼女が小さく息を吐いた。その次の言葉を躊躇っているように見えた。
「ようやく帰ってきたふたりは、特に父は血を浴びていました。鮮血、でした。だれを傷つけたのか、だれも何も言わずとも、私は分かってしまえたのです。その後は恐怖なのか安堵なのか、どんな感情を自分が抱いているのかさえ分からず、私は泣きました。ひとしきり泣いたあとに、自分のせいでふたりは人を傷つけたという事実が重くのしかかかって、死んでしまいたくなりました。」
死んでしまいたくなった、と語った。
そう手帳に書き付けたわたしの手でさえも震えていた。目の前の彼女は今も生きていて、それでも彼女の両親は未だ箱のなかにいる。
「警察がすぐにやってきて、私は言えなかった。ふたりは私を守ってくれたのだと。おぞましい悪魔から、私が二度と傷つけられないよう、守ってくれたのだと。どうして言えなかったのか、今でも悔やんでいます。もしかしたら、あの夜のことを口にすることが、ふたりと会えない時間が長くなることよりも怖かったのかもしれません。言葉にすることで、現実であることを認識してしまうのが嫌だったのだと思います。」
彼女がここまで言葉にしてくれたのは、前に進めているからなのだろうか。そんな浅はかな判断はしたくなかったけれど、ただ目の前の彼女を見て、後悔はあれど今呼吸を絶ってしまいそうな危うさはなく、そのことに安心する。
それでも彼女は未だ一点だけを見つめていた。
『光の回廊』
明朝体で記されたその言葉を見て、カイロウ、という言葉を頭の中で検索してみても何一つヒットしなかった。
馴染みのない単語を題に持つその絵画は、暗闇の中で涙する女の人を描き出していた。真っ黒な世界のなかで、頬を伝う涙が眩しいほどに光を放っていた。
これを描いた人がなにを伝えたかったのかは記されていないので分かりようがないし、語られても分かる自信は微塵もなかった。ただ、その絵は美しかった。わたしが言えるのはそれだけだと思う。
知らない人の個展。雑居ビルの地下一階で密かに開かれていた。知らない人、というのはすこし語弊があるけれど、元彼がこの人の作品を好んでいただけで、わたしは関心を示さなかった。この個展の情報は、彼をブロックできないままのインスタのタイムラインに流れてきた。未練がましいのかもしれない、もしかすると彼がいるかもなんて思って来てしまった。
地下一階の閉塞感が拭いきれない小さな空間に、人影は数えるほどしかなかった。人影よりも少しだけ多い作品の中で、一つの絵に目がとまった。
高尚なことは何も言えないし、評論なんてできないし、AIに負けてしまうくらいの語彙力で外国人でも分かるような言葉でしか感想を紡ぐことができないけれど、ただ惹かれたその絵は美しかった。
目にも光を宿さない彼女の一筋の涙だけが輝きを含んでいる。これはなにを意味するのだろうか。分かりたくなったけれど分かりたくもなかった。ただ一つわがままを言うとするならば、元彼の長ったらしい感想が聞きたくなった。
彼はこの絵を見てなにを思うだろう。
黒髪ボブにわたしを重ねたりしてくれないだろうか。そんなことを思いながら、光だけを見つめていた。
降り積もる思いは、どう処理すればいいのだろう。二十数年生きていても、わたしはまだ最適解を見つけられずにいる。
我ながら感受性は豊かで、様々なことに対して敏感だと思う。だから色んなことに気を張って、色んなことに自分の思考を巡らせて、そのくせそれを口にすることが下手なせいで、考えや感情は昇華されずに溜まっていく。まるで、降り積もる雪のように。
この悪癖をわたし以上に嫌っていた、兄が死んだ。兄はわたしと異なって、後先を考えない行動が多い人だったし、自己中心的で周りに関心を持たないような人だった。わたしが言葉を詰まらせていると、いつも苛立ってわたしを急かして、最後にはわたしの言葉を代弁するかのように自分の気持ちを語った。兄とは折り合いが悪くて、兄がわたしを鬱陶しく思っていたように、わたしも兄を好ましく思っていなかった。自分がよければ周りなどどうでもいい、兄は常々そう思っている、と思っていた。
兄は死んだ、車道に飛び出した子どもを庇って。あの兄が、誰かのために身を投げうった。
煙を見ながら兄とのことを思い返してみる。けれどどれもがわたしの思い込みであったように感じられて、本当の彼の姿ではなかったように思われて、次第に記憶に靄がかかっていく。
両親が泣いている、たくさんの知らない人が泣いている。彼らから見たわたしの兄は、どんな人だったのだろうか。兄は本当に傲慢な人だったのだろうか。兄は本当に自分だけが大事だったのだろうか。兄は、本当はわたしのことを嫌ってはいなかったのではないか。
疑問が次から次へと積もり積もっていく。けれど、まだ言葉にはできそうになかった。
あの夢のつづきを、とか細い声だった。彼女がどんな夢を見たのかわたしには分からなかった。彼女はいつも夢見がよくないから、今日も例外ではなくそうなのだと思ったけれど。あの夢、に彼女が縋っているように見えて、きっとさぞかし素敵な夢だったのだろうと思った。
それでも彼女は泣いていた。はらはらと涙を流して、頬を伝ったそれらは、二人で一つを共有する枕を濡らした。
大丈夫だよ、と抱きしめてみる。彼女の白い肌は血管までもが透けて見えそうで、わたしが抱きしめた跡すらも鮮明に残してしまいそうで、触れるのが怖い。けれど、その恐怖よりも、彼女がそのままどこか行ってしまいそうなことの方が怖かった。ベッドから起き上がった彼女を引き留めるようにして抱きしめる。
大丈夫だよ、なんて確証はない。それでも、わたしはそれしか言えない。
彼女はなにも言わず、無理にわたしの腕を逃れようとせず、ただベッドの縁に人形のように座っていた。
しばらくして、手の甲が濡れた。
「とりとめもない話、してもいい?」
とりとめもない話ならば、そんな前提はいらないんじゃないかと思った。無言を肯定と受け取ったらしい彼女は、言葉を続けた。
「私達が生きられているのは奇跡が連続してるからなんだなって最近気づいたの」
つまらない動画をスクロールしていくだけの指が止まった。
「私達の傍にはいつだって死があるの。それなのに私達が生きていられるのは、奇跡がたまたま、当たり前のように続いてくれているからなの。そのことに気付いて、私、もっと生きたくなっちゃった。いつかは死んでしまうのなら、今死ぬのは勿体ないなって思えるようになったの」
何も言わないことが正解だった。本音を言えば、彼女の声のトーンは明らかに下がるだろうし、彼女の言葉に驚くあまり、作り笑顔に思ってもいない言葉を重ねる余裕はなかった。
「ねえ、一緒に生きたいな、この先も」
何に毒されてしまったのだろう、いつものように考えすぎておかしくなってしまったのか。わからないけれど。
彼女のその傷でさえも、彼女が与えられた奇跡の証明になるのだろうか。