❄️ 霜降る朝とクロ
寒い朝というのは、いつもより世界が澄んで
いる。
透明度が高い。まるで水の中にいるみたいに。
息を吸うと、その冷たさが肺の奥まできゅっ
と届く。
そうすると、ああ、生きているな、と思う。
昨日までの、なんだか濁ったような心持ちも、
この冷たい空気で洗い流されていく気がする。
庭に出ると、芝生が真っ白になっていた。
霜だ。
太陽の光を反射して、きらきらしている。
小さな小さな氷の粒が、一面の絨毯みたいだ。
クロは、そんなことおかまいなしに、白い絨
毯の上を駆け回る。
黒い毛並みが霜に映えて、まるで影が動いて
いるみたいだ。
鼻をひくひくさせて、地面の匂いを嗅いでい
る。
冷たいだろうに。
彼はいつも、今、ここにいる。
この世界で一番シンプルで、正直な生き物だ。
私たち人間は、過去を悔やんだり、未来を心
配したりして、今を複雑にしてしまう。
「クロ、いいな、おまえは」
そう声をかけると、彼は一度立ち止まり、首
をかしげてから、また走っていく。
霜で濡れた足跡が、芝生の上に黒く残ってい
る。
それが、朝が過ぎ去っていく証拠みたいだっ
た。
私たちも、クロみたいに、今日という一日を、
全力で走り切るだけでいいのかもしれない。
霜の降りる朝に見つけた、ささやかな真実。
「心の深呼吸」
心の深呼吸。
それは、たぶん、
「何もしない時間」のことだ。
最近、
ずっと浅い呼吸をしている気がしていた。
やらなきゃいけないこと。
考えなきゃいけないこと。
それらが、空気みたいに重くて、
胸の奥まで、届かない。
ふと隣を見ると、
愛犬のクロが、丸くなって眠っている。
黒い毛並みが、光を吸い込んで、
そこに、ただ、いる。
「クロ」
小さく呼んでみても、彼は動かない。
その規則正しい寝息だけが、
静けさを破る。
ああ、いいな、と思った。
この、ただ存在する時間。
私も、クロの隣で、
そっと、目を閉じる。
過去も未来も、やるべきことも、
全部、そっと手放す。
吸って。
吐いて。
クロが教えてくれた、
世界で一番簡単な、心の深呼吸。
大丈夫。
クロの隣で。
もう一度、吸って。吐いて。
「時を繋ぐ糸」
愛犬のクロは、もうすぐ16歳になる。
いつもわたしの手の届くところにいて、
鼻先でそっと手のひらを押してくる。
その湿った感触。これが“今”の証拠。
何千回、何万回と繰り返されてきた“今”だ。
クロが仔犬だった頃、
散歩中に四つ葉のクローバーを見つけた。
わたしはそれを栞にして本に挟んだ。
その本を開くたび、若かったクロが蘇る。
あの日のやわらかい光とともに。
時というものは、それは太い糸ではない。
無数の細い、透明な糸の集まり。
あるいは、透明な糸で織られた布。
光の加減で見えたり、見えなくなったりする。
最近、クロの歩く速度がゆっくりになった。
時を繋ぐ糸は、わたしたちを、過去から未来へ、
そっと引き寄せているのだろうか。
そして、いつか、未来から過去へも…。
クロの寝息を聞きながら、その糸の感触を、
ただ静かに、大切に噛みしめている。
「紅の記憶」
夕暮れの茜色。
どうしてあんなに強烈なのだろう。
いつだったか、クロと散歩に行った公園。
見ているものを魅了する。
イチョウの、燃えるような赤と黄色。
クロは黒い。
だから、「紅」の強さが際立つ。
立ち止まり、空を見た。
クロがわたしの足に鼻先をこすりつける。
───早く行こうよ。
彼の世界に、「赤」はただの景色だ。
感傷も郷愁もない。
その潔さが、私は好きだ。
私の中の「紅」の記憶たち。
鮮やかだで、でも、もう触れられない。
過去の熱い恋。決別。そういうもの。
クロは「今」しか見ていない。
彼と一緒にいると、
外の条件に左右されない幸福を、
見つけられる気がする。
今、クロの耳が、パッと何かを捉えた。
遠くの音。
彼は走り出した。
ただ、まっすぐに。
私も行くよ、クロ。
「夢の断片」
朝、目が覚める。
いつもなにかを忘れている。
夢のほとんどは、消える。
洗い立てのシーツみたいに。
光を浴びると、乾いて消えてしまう。
ごくたまに、残るものがある。
指先の砂粒ほどのざらつき。
それが「断片」だ。
昨夜の夢も、そうだった。
小さなざらつきを残した。
真っ白な部屋にいた。
わたしとクロ。
窓もない。ドアもない。
静かな、ただ白い空間。
クロは首をかしげた。
わたしの顔を、じっと見つめていた。
いつもの瞳じゃない。
澄んだ茶色じゃなかった。
夜の海。深い藍色だった。
わたしは、なにも言えなかった。
クロのその藍色の瞳のなか。
遠くで点滅する、小さな星。
それを見つけようと、見返していた。
現実に戻る。
クロは足元。丸くなって寝ている。
いつものように。
太陽の光。
黒い毛並みが、鈍く光る。
ああ。
この子こそ、わたしのいる白い部屋の。
唯一の窓。
そして、ドアなんだ。
夢の藍色はもうない。
あるのは、安心しきった重み。
かすかな獣のにおい。
それで、充分だ。