「怜くんママ、久しぶり!」
少し鼻にかかった高い声に呼び止められて振り向くと、スーパーの籠を腕にかけた笑顔の女性が立っていた。
「朝ちゃんママじゃん。保育園以来?」
彼女はココア色のカットソーを着て、小さなショルダーバックを肩からかけていた。
一方、特売の大量のお肉が入った私の籠。背中に隠そうとしたけれど、どうにも隠しきれない。
「そうだね。もううちの子たちったら食べ盛りで、怜なんか柔道部なの……恥ずかしいな」
「そんなことないよ。うちなんて引きこもりだよ。怜くんは元気で羨ましいな」
ふふふと笑う朝ちゃんママの目元には、上品な茶色いラメが光っている。とりあえずファンデーションを塗っただけの私とは、大違いだ。特にココア色のカットソーなんか、私は絶対に買わない。
理由は単純。ココア色は秋色。
すなわち、短い秋にしか着れない服なのだ。息子たちの食費と部活の遠征費のために、節約しなきゃいけない。なのに、春と秋を兼用できない服なんて、もったいなさすぎて買えない。
きっと、朝ちゃんママは生活に余裕があるんだろうなどと、モヤモヤした思いが頭を占拠する。
だめだ。節約しても、心まで卑屈になっちゃいけない。私は顔を上げる。
「引きこもりって、朝ちゃん小さいときから賢そうだったもん。勉強してるんでしょう? うちなんて全然……」
「不登校なの」
「え?」
朝ちゃんママの顔が少し曇る。
「ちょっと色々あって、学校に行けてないんだ」
「そうなんだ……」
感情の落差で言葉がでてこない。だって、彼女はとてもキラキラして幸せそうに見えたから。
「だから、私まで暗くならないようにしないとと思って……あ、もう時間だ」
彼女は腕時計をチラッと見て、去っていった。最後までニコニコしながら。自分は明るく元気だと言い聞かせるような雰囲気で。
いつもお行儀良かった朝ちゃん。ちゃんとしすぎるくらい良い子だった朝ちゃん。今は、暗い部屋でひとりママの帰りを待っているのかもしれないけれど。
私はお菓子売り場の茶色い袋を手に取った。Happy Halloweenと書かれたクッキーの袋。
「これくらいなら節約にも支障ないよね」
私は秋の彩りを籠に入れて、レジに向かった。
叔母さんが亡くなった。
長らく意識不明で入院していたので、一報を聞いても、不思議と悲しみはあまり出てこなかった。
祭壇の写真の中の叔母さんは、元気に笑っていた。けれど、棺の中の顔はすっかり痩せていて、どこか別の人のお葬式みたいだった。
☆
「友達に遠近両用メガネを作ってもらったら結構良くって、ついスマホ見ちゃうんだよね」
いとこのお兄ちゃんはビールを手酌でコップに注ぎながら、相変わらずの垂れた目尻を更に下げた。
「何見てんの?」
「TikTokとか、ショート動画とか」
「45歳にもなって、若いの見てんね」
「お、そんなこと言ってるけど、もうすぐ奈央ちゃんにも老眼が来るから。メガネかけるか外すか迷う日が来るから」
私は「えー」と言いながら、サーモンのお寿司を取ろうとして、横のマグロの赤身に箸を寄せた。何だか最近は、サーモンの脂身で胃もたれする。
私は確実に歳をとったけれど、お兄ちゃんとは昨日会った続きみたいな会話をした。15年ぶりに会ったのに、空白を感じない。
時間が経っても、私たちを取り巻く空気は変わらなかった。叔母さんがここにいない以外は。
午前七時のニュースは、アメリカの株が暴騰したと報じていた。スマホとニュースを何度も確認したけれど、やはり出ていない。暴風警報が。
カーテンを開けると、雨がしとしと降って雑草を濡らしていた。俺はため息をつきながら、朝の身支度に取り掛かった。
明日から中間テストが始まる。バックに教科書と参考書を入れる。この結果で、志望校と内申点が大きく変わってくる。
「A高校の前にはお城があって、マラソン大会や写生会も、そこでやるのよ」
自転車を押しながら、ブレザー姿の先輩が笑った。黒髪のポニーテールが、テニスラケットによく似合っていた。
でも、俺にはまだ足りない。A高校に行く成績も、先輩に似合う雰囲気も。強引にやろうかと思ったが、やはり諦めよう。バックから、そっと金槌を出す。
台風に乗じて愚行を試みようとしていた。休校の学校に忍び込んで、答案を盗み見しようと。
でも、台風は過ぎ去った。どうやって、A高校にねじ込むか。また、一から考えないといけない。
「今日は祝杯だ」
ぶどうジュースの入ったワイングラスを傾けて、赤く光る液をうっとりと見つめた。
パパは出張、ママはおばあちゃんち、お兄ちゃんは合宿。私は家にひとりきり。こんなチャンスは、もう二度とないかもしれない。
「ひとり暮らしを満喫しちゃうもんね」
パウンドケーキ、チキンサラダ、フルーツポンチをテーブルに置いた。
電球が入ったキャンドルライトを照らせば、ここはおしゃれな部屋みたい。髪を三つ編みでゆるく結び、ピンク色のふわふわのジップパーカーの袖を頬に当てながら、フォークを一口大に切ったパウンドケーキに突き刺す。
「レーズンに少しだけお酒がしみてて、おいしいな。甘さ控えめで、いくらでも食べれちゃうじゃん」
パウンドケーキを半分食べたところで、しょっぱいものが食べたくなって、チキンとレタスを口に放り込んだ。
「シャキシャキのレタスがいいねえ。でも、チキンの塩っけがもう少しほしいかも」
立ち上がって台所の棚を見渡すと、ちょうどいいものがあるじゃない。
コンソメ味のポテトチップスを取り出したけれど、これじゃあ、大人の夜に足りない。沖縄で買った琉球ガラスの器に、ポテトチップスをザラザラと入れる。
ガラスの青いグラデーションが、じゃがいもの船を運んでいるみたいに見えてきた。
「これでよし。でも、手が汚れるのは嫌だな……」
それに、おしゃれルームウェアも綺麗なままがいい。引き出しを開けて、割り箸を取り出した。
「さて。夜も更けてきたし、いい感じのBGMでも流そうかな」
星降る夜のBGMとやらをタブレットに映し出すと、流れ星とともにオルゴールの音が落ちて来た。
「これはいいな」
私は箸をパキッとふたつに割り、ポテトチップスを口に入れた。コンソメの粉がいっぱいついてて、おいしい。ぶどうジュースを飲むと、甘いとしょっぱいのマリアージュで、どこまでも行けそうだ。
気づけば、パウンドケーキとフルーツポンチも加わって、甘じょっぱいのカルテットが出来上がっていた。いつの間にか、チキンサラダの上には激安スーパーで買った生ハムものっている。
「もうお腹いっぱい……」
私はソファにもたれかかり、短パンから出た足を前に放り出した。薄暗い天井を見つめていると、まるで夜空の雲のベットに包まれているような気がしてきた。
☆
「一花、ちょっと起きなさい」
「ふわ……眩しい?」
目を開けると、お母さんの顔が見えた。私はソファでそのまま寝てしまったようだ。正確には、床でバンザイの体勢で転がっていた。
「一花、あんたちょっと臭いよ。昨日お風呂入った?」
「ええ……入ったよ」
「あっ、口だ。口が臭いっ。テーブルもこんな散らかして、この子はもう」
テーブルの上を見ると、パウンドケーキのカスと、ワイングラスの底溜まりのぶどうジュースと、ポテトチップスのカケラが散らばっていた。
「うう、ごめん。つい、グスッ……寝ちゃって」
鼻から汁が垂れた。
「あっ。一花、あんた風邪ひいてない? だから、余計口が臭いのよ。ちょっと熱を測ってきなさい」
私は渋々立ち上がって、よろよろと歩き出す。と、合宿から帰ってきたお兄ちゃんが台所で水を飲んでいた。
「うわ。お前、人生諦めたおっさんみたいになってんぞ」
眉をひそめたお兄ちゃんから目をそらすと、鏡に私の姿が映った。三つ編みは取れて癖っ毛が爆発、ふわふわのパーカーにはポテトチップスのカケラがいっぱい付いていて、顔はむくんでいる。もちろん猫背。
「おっさんじゃないよ。女子高生だよ……」
鼻声でそう絞り出すのが、精一杯だった。
「赤、緑、青と言えば?」
黒板にチョークを走らせて振り返ると、ふたりの少年が元気に手を挙げた。
「光の三原色!」
「BTB溶液!」
「BTB溶液は違うだろ。黄、緑、青だよ」
「ふっ、無知めが。強酸だとBTB溶液は赤くなるんだぜ」
「何……しかし、光の三原色の方がお題に合った回答だろう。BTB溶液は斜め上に捻りすぎだ」
「光の三原色なんて、単純すぎるだろう」
「いや、BTB溶液の方が知識をひけらかしているようで、鼻につく」
「先生の前で、いい格好をしたいんだ。知識をひけらかして、何が悪い!」
少年たちが私の前で言い争いをしている。
やめて、私のために争わないで。
そう言いたかったけれど、言葉が出なかった。だって、BTB溶液の色なんて忘れていた。私が先生であることが、恥ずかしい。
でも、ここは科学教室じゃなく、お絵描き教室だから。思わず筆をぎゅっと握りしめる。
「君たちには素敵な才能があるんだね」
引きつった笑顔で、私はそう言うしかなかった。