『君は何だか、生きづらそうだ。』
悲しそうな表情する彼。俺の目から雫が落ちた。
「天使だ。」
俺の口からは自然と、その単語が出た。比喩などではなく。目の前の彼には、白く美しい翼が生えていたのだ。
『こんばんわ。ベランダお借りしてるよ。』
俺に気付いた天使は、微笑んだ。俺の家はマンションなので、よく鳥が羽を休めにやってきた。それと似た理由なのかと考えていると、天使は口を開けた。
『僕は天使じゃないよ。昔は人間だったんだ。でも、環境に恵まれなくって、最後は自殺しちゃったんだよ。そんな僕を哀れんだ神様が、僕の願いを聞き入れてくれた。』
「何を願ったんですか?」
『どこまでも行ける、翼をくださいってね。』
翼。俺もそんなものがあったら、楽しいかな?
「何でその話を、俺にしたんですか?」
俺が聞くと、彼は真剣な眼差しを俺に向けた。
『僕みたいな死者が見える人って、死期が近い事を示すんだよ。そして、僕達はその人の死因が分かるんだ。君は近々自殺する。君も環境に恵まれなかったんだろ?』
俺は言葉が詰まった。ただ頷く事しか出来なかった。
『僕はきっと、君と自分を重ねちゃったんだ。だから言える。君は何だか、生きづらそうだ。』
涙がこぼれた。今まで、誰も俺の事を気にしてはくれなかった。両親も先生もクラスメイトも。それなのに、彼だけは俺を見てくれた。
「ありがとうございます。」
心からの感謝の言葉は、弱々しく夜に飽和されていった。
『今日は君の、命日だ。寂しくなるよ。』
「えっ!死んだら会えなくなるんですか?」
『生きてる君とはね。』
自殺する直前なのに、俺達の間には笑いがあった。
『死ぬのは怖くない?』
「怖くないって断言はできません。それでも、落ちるよりも飛び始める、って思うと気が楽です。」
俺は、ここではないどこかまで飛んで行ける翼を神様に願った。さぁ、飛ぼうか。俺の体が宙を舞った。
「お話しませんか?」
そう言う彼の目は、全てを見透かすようだった。
「ここから飛び降りるの?」
誰だこいつ?ネクタイの色から同級生だと分かる。無機質な笑顔を見せる彼。変な奴、これが初めの印象だ。
「辞めろとか言うのか?」
彼は無言で頭を振った。じゃあ何しに来たんだよ。
「僕はただ、自殺する人の心情が知りたいんだよ。だから僕と、お話しませんか?」
彼の言葉に偽りは感じなかった。俺は彼に流されるまま話し出した。
家に帰るのが辛かった。父親は酒屑で、酔っ払うと暴力を振るう。母親は癇癪持ちで、気に食わない事があると一日中暴れた。こんな家庭に産まれて、真面目に育つ訳が無い。俺の心は次第に、ボロボロに崩れていった。こんな日々から逃げ出したい。そう思った時、屋上のフェンスの向こうに立っていた。
「これが俺が自殺しようと思い立った理由だよ。」
彼は俺の話を頷きながら聞いてくれた。そういえば久しぶりだ。まともに人と話すのは。
「お前は何で、自殺する人の心情が知りたいんだ?」
俺が聞くと、彼の笑顔が一瞬引きつった。そして、徐ろに口を開けた。
「僕の兄は去年、首をつって死んだんだよ。学校で虐められてたんだ。あの時兄は、何で身内とかに相談しなかったんだろうって、ずっと疑問だったんだよ。でも、君のおかげで分かったよ。兄は人生から逃げたかったんだね。」
彼の目には涙か浮かんでいるようだった。
「俺は、この日にお前と話せて良かったよ。」
あと半歩前へ行けば、この世とおさらばだ。
「僕も君と話せて良かった。あの世に逝ったら、兄によろしくね。」
俺達は拳を合わせ、笑い合った。
「またどこかで逢えたら、友達になってくれますか?」
「当たり前だろ。じゃあ俺は先に逝くわ。」
俺は彼に見送られながら、前へ歩いた。
彼と最初で最後に出逢った日。俺が死んだ日。そんな日に俺は、彼への幸福と再会を願った。
「強くなりたい。」
そういう彼女の目は、潤んでいた。
「私達、別れましょ。」
突然、彼女が告げた。その言葉は、残酷なまでに優しかった。お願いだから。そんな泣きそうな顔しないでよ。そんなんじゃ、僕は一生君を忘れられないよ。
「もっと僕を頼って欲しかった。」
放った言葉は、風に飛ばされてしまう程に弱々しかった。
この一ヶ月後に、彼女は亡くなった。死因は病死。元々体が弱かったらしく、僕を振った日には、余命宣告されていたらしい。僕は分かっていたんだ。彼女の病が悪化している事にも。それなのに、気付かないふりをした。いや、気付きたくなかった。結局の所、僕は弱虫なのだ。
〈貴方にお願いがあります。私が死んだら、私の意思を継いで欲しい。私はタンポポの綿毛のように、弱い人間です。私はそんな自分を変えたかった。でも、そんな願いはもう叶わない。だから、貴方が、私の分まで強くなって下さい。それが私からの、最後の我儘です。〉
正直、僕には荷が重い願いだ。それでも、叶えてみせるよ。それが君を一人にした、僕の贖罪だ。
繊細な花として散った彼女。そんな彼女を愛した僕。僕たちが強さを得るには、まだまだ時間が掛かりそうだ。風が吹く。タンポポの綿毛が空に踊った。
「好きです。」
あの時、あの瞬間から俺の心は確かに彼女のものだった。
「もう一年か。早いね。」
教室の窓の外を眺めながら、彼女が言う。長い黒髪は風に揺れ、羽のようだった。神の使いかと思うほどの美しさが、彼女にはあった。そんなどこか儚いオーラを纏った彼女に、俺は一目惚れしたのが、一年前。あれから俺達は親友となり、恋人となった。
「来年も一緒に過ごしたいね。」
些細な願いだった。これの願いが叶うなら、俺は何だって出来る。そう思っていた。
ここは病院の中の一つの部屋だ。目の前には彼女がいる。目を伏せた彼女がいる。
「お願いだから、目を開けてよ。」
どうやら事故に遭い、意識不明らしい。そんなの嫌だ。彼女と話したい。彼女と笑いたい。ずっと彼女と一緒にいたい。想いが溢れる。しかし、この想いは彼女には届かない。こんなはずじゃなかったのに。辛いよ。怖いよ。こんな現実、逃げたいよ。でも、俺は諦めない。まだ、彼女と会える希望があるから。頑張るよ。何日、何ヶ月、何年経ってでも、彼女とまた一緒に過ごすんだ。
俺の努力は報われず、一年後に死んだ。もう駄目だ。彼女とは会えない。この事実は死よりも辛かった。
「君に会いたいよ。」
「それはこっちの台詞だよ。」
懐かしい声に、振り返る。そこには彼女がいた。
「君が死ぬなら私も死ぬ。だって、ずっと一緒なんでしょ?」
彼女はお茶目にそう言った。涙が止まらなかった。
「俺が起きるの、ずっと待っててくれたの?」
「当たり前でしょ。」
俺達は笑い合った。そして誓った。一年後も十年後も百年後も、来世でも、彼女の傍に居続けると。
「早く大人になりたいな〜。」
昔は今の現状に満足せずに、大人に憧れた。それなのに、今の俺は過去の俺が見たらどう思うだろうか。
〈〇〇小学校 卒業アルバム〉
そう大きく書かれた、分厚い本が目に入る。実家の倉庫の片付けをしている時だった。休憩がてら、アルバムを開く。
〈俺の将来の夢は、格好良い大人になる事です。〉
俺の将来の夢の欄には、そう書かれていた。抽象的すぎる夢に、顔が綻んだ。俺はなれたかな?
子供の頃は、自分こそが世界の主人公だった。そして、大人になったらもっとすごいことが待っている、そう信じていた。しかし、大人になって知った。昔憧れた大人は、存在しないのだと。大人はすごい、格好良いと目を輝かせていたあの頃にはもう戻れない。大人も社会も、薄汚いものだ。きっとその事を知った日から、俺もまた、薄汚い大人になっていったのだ。過去の俺を叱ってやりたい。抽象的な夢を抱く前に、もっと努力しろと。大人になってから頑張っても、もう遅いのだと。そして、教えてやりたい。お前が夢を見ているその日々が一番楽しいと。
あぁ、もう一度やり直したい。そんな馬鹿げた夢、叶うはずはない。ならばいっそ、これ以上汚くなる前に終わりたい。
足が自然と会社の屋上へと向かう。フェンスを越えると、そこには美しい景色があった。世界も上辺だけは綺麗なんだな。俺は少しの勇気と来世への期待を胸に、前へ歩く。
子供の頃は自分が世界の中心だった。大人になったら世界を回す歯車になった。歯車だとしても、俺が死んだら世界が悲しんでくれると期待してもいいじゃないか。