「ふふ、汚いね。」
外科医のセシルは腐乱した人型を見て笑った。
「おえ……タンスの中で死んでた鼠の臭いに似てる。」
狭い個室に充満する悪臭に、美容師のアイザックは身体を前にかがませてえずく。
その様子を見てセシルは眉間にシワを寄せた。
「ちょっと、そんなのでちゃんと仕事できるの?お気に召さないと首ちょんぱだよ、二人とも。」
「勘弁してくださいよ。こちとらあんたみたいに、命の溶けた人間に慣れていないんだ。」
時刻は深夜。
とある屋敷の地下室で、二つの影が蠢いていた。
中央には黴びた臭いがする机。
その上に置かれた、どす黒い液体と蛆に塗れる一つの物体。
それはかろうじて人の形をしていたが、人間と呼ぶにはあまりにも手遅れでかけ離れている。
七色の身体だ。
あるところは赤黒、あるところは薄緑色で、でこぼこな体躯を無作為に染色していた。
胸から腹にかけて、小さな刃物を何度も何度も叩きつけて生まれたような切り傷が存在を主張し、それがこの死体の死因なのではないかと推測できる。
また唇は焼けてなくなっており、直接見えてしまう歯茎は一度溶けて再度固まり直したような雫跡があった。
そこから少し視線を上へやると、眼球の一部であったであろう粘着質な液体が、目の周りにびっしりと張り付いている。
そのどれからも、亡くなってから随分経っていることが読み取れる。
セシルはその死体の周りをぐるりと一周すると、飛び散った体液で汚れた壁の一面に目をやった。
そこには人物写真と数行の文章で埋められた一枚の羊皮紙がある。
『死体についての情報』が記されていた。
「名前はジュリア・ロビンソン。東北の都市で有名な歌手で、引退宣言を最後に行方をくらませる、か。」
美しい顔立ちと感情豊かな歌声。
心を震わす繊細な歌詞、並外れた表現力が多くの人々の心を掴み、世代を超えて愛された著名人。
そんな彼女が活動から身を引くといったのは突然のことだった。
多くの人に惜しまれて舞台を降りた後、その姿が浮かび上がることは一切として聞かない。
まるで存在ごと遮断されてしまったように失踪した。
もう一ヶ月前の話になる。
しかし、そんな彼女を死体の状態で偶然にも拾ったのが、今回2人のクライアントでもある資産家アンドリュー氏だ。
ジュリアの熱烈なファンだったらしい彼は言った。
「死体を復元してほしい。」
この話は決して大衆の前には出ず、ただ水面下で復元計画の話が広まり、伝と伝を伝って届いたのが、この都市で確かな腕を持つ外科医のセシルと美容師のアイザックだった。
「ではでは、取り掛かりましょっか。とりあえずあたしは人に見える形には直すけど、そこからジュリアに近付けるのはよろしくね。」
「ああ。」
夜が始まる。
セシルは夜を楽しんでいる。
普段は人間の命を預かり、絶対的な責任を持って治療する義務があるからやりにくい。
しかし、今の患者はただの屍だ。
嫌がりも痛がりもしないし、いつもなら皮膚を介さず伝わる生々しい心臓の動きもない。
どうしてやろうか、そんな気持ちになれるのだ。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
乾いた外側と違って、冷たいがまだ濡れている中身。
内臓がいじられる音が響く。
「……。」
部屋の隅で、その音に耐えかねて青い顔をしているアイザックがいた。
「大丈夫?美容師さん。」
セシルがけろりとした顔で尋ねる。
振り返った彼女の顔に黒い液体が付着していたことに再びえずくと、首を横に振った。
「……嫌いだ、人間の生々しいところ。ただの汚い有機物に見えて、消えたくなる。」
「どうしてこの依頼を受けたのかつくづく疑問に思うよ。」
呆れてため息を吐いた。
同じ外科医仲間でも多くは躊躇うような依頼……強心臓な美容師がいたものだな、と思っていたが、蓋を開けてみればそれは買い被りだったと知る。
こちらが死体のような顔色になってどうするというのか。
アイザックは不意にふらりとセシルの方へ近付き、虚ろな視線で動かないジュリアを見た。
セシルの施しによって、それは随分人間としての形を取り戻しつつあるが、依然として綺麗な死に顔とは言い難い。
「汚いな。」
「そうだね。まあ、ここを縫合すればそれなりに整うよ。」
機械的にセシルは作業を続ける。
段々と外側から冷えていっている事がわかる。
調子が悪く自力では起き上がれない日も増えて、吐き気や怠さは常におれの周りを囲っている。
もうすぐいなくなる、それは誰よりもおれが分かっていた。
死ぬのは怖い。
ハルサキの前では心配かけないよう振る舞ったけど、死んだ先のことなんて知り得ないし、その果てになにか報われごとがあるということも、おれは信じていない。
身体が止まれば人はそれまで。
永久の喪失に恐怖を抱くのは、当然のことだろう。
それでも取り繕いたい。
生来、おれはそういう人間だから。
周りには大切な人たちがいる。
みんなが傷付くことがおれにとって何よりの不幸で、誰かの幸福を守っていけるのならば、大抵のことは犠牲にしてきた。
それを不幸と思ったことはない。
両親が死んで、親族をたらい回しにされてきた時から、存在することを望まれていない人間だと理解した。
死んでほしいのではない、消えてほしいのだと。
表面がぐじゅぐじゅした傷口へ、木枯らしが吹き付けていくような感覚。
苦しかった。
だから、大切な人の糧となれるのなら、おれは喜んで全部を捧げることができる。
自分の感情を押し殺してでも何気ないフリをする、その理由として十分に足りうるだろう。
だから唱える。
「大丈夫」だって。
死への恐怖は誰も知らなくていい。
隠したままあちら側へ全て持っていくから、どうかみんなは、おれの最期は幸福で満ち溢れていたってこと信じてほしい。
ハルサキ、コト、シンヤさん。
いなくなっても、快活に死んでいった奴がいたなって思い出してね。
それがみんなの好きなヤギだから。
「ハッピーエンド信者だってさ。」
「なにが?」
「お前の評判、ネットの。」
短編小説家カキオカコは、ある小説賞を機に世へ出回った若手の創作者だ。
指先を切れば血が滲むようなキャラクター、秀麗滑稽を持ち合わせた言葉選び、大衆が好む『奇才』を体現したその特性。
人気を博すのに、大した理由はいらなかった。
しかしそれは数ヶ月前の話である。
「みんなもう飽き飽きしてるんだ、めでたしめでたしで終結する展開。」
数十という数になったカキオカコの作品。
時代も世界観も何もかもが七色だが、そこにはある共通点があった。
「結末はすべてハッピーエンド。」
朔馬はスマホを片手に壁へ寄りかかって、小説評価サイトのコメントを逐一読み上げていく。
結末が読めて途中から冷める。
中間まで面白いのに後半どうした?
時々いるよね、読者にとって不要のこだわり持ってる人。
「いいじゃん、ハッピーエンド。」
カキオカコこと秋山未来は、机に向き合っていた回転椅子を直角に回し、朔馬の読み上げを遮る。
「ハッピーだよ、幸せだよ?ワンデイエブリワンウィルビーハッピー。アイウィッシュソーザット。」
「お客はそういうの望んでないんで。創作こそ究極の接客業、読者に媚びてこそなんぼもの。」
「俺別に売れたいとか思ってないんだけどなぁ。」
未来は小説を単なる金稼ぎのツールとは思わない。
ストーリーとは思想の反映で、主人公は作者の分身。
だとするのなら、物語の結末はある種作者の末路とも言えるのではないだろうか。
「それにしても、ハッピーエンド信者ね。なかなか阿呆みたいな面白い言葉考えるじゃん。次の話はそれを取り入れてやろうか。」
未来は両手の親指と人差指でカメラを作り、椅子ごと回転させて自身の周りを記録するように映した。
くるくると何度か回ったあと、朔馬の位置で固定する。
「それを言うなら、お前はバッドエンド信者なんだろうね。」
〈未来〉
若手小説家カキオカコとして短編小説を書いている。しかしその全てがハッピーエンド、そのこだわりにどんな意図があるのかは誰も知らない。温厚でまるい性格だが、どこかへんてこで天才気質。小説が心から好きで、周りの評価や売り上げなどは執筆における副産物としか思っていない。
〈朔馬〉
未来の借りているアパートの隣人。「末ロさき」という名前のイラストレーター。多種多様な絵柄に対応できる。功利的で冷めた性格。未来とは違い利益目的で絵を描いている。
「……そんなに見られるとさ、描きにくいって分からない?」
新島の後輩に当たる羽柴と黒柳は顔を見合わせていたずらっぽく笑った。
「えー?」
鈍い西日の差す放課後の美術部。
今日は曇り、それに加えて室内は明かりがつけられておらず、全体的に浅い暗闇をまとって少し息苦しい。
それでも彼ら彼女らの表情は濁りなく鮮やかで、口元を抑えてくすくすと笑っている。
「だって、絵を描く時の先輩大好きなんですもん。」
「そうそう、絵を描いてる時の先輩は!」
やけに強調してそう言うのは、無邪気なフリをして、綺麗なレースを被って変顔を隠す、道化の姿をしているから。
普段の姿も好きであれよ!という情けないツッコミを期待していることは丸見えなので、新島はわざと無視をした。
濃い青に濁った筆の先を筆洗へ乱暴に突っ込み、音を立てて掻き乱すと中の色は紫に変わる。
その様子さえもじっと大きな瞳で見つめる2人に、2度目のため息が零れた。
「あっ、怒った。」
「きゃー。」
背もたれのない椅子から立ち上がり、顔を何か衝撃から守るようにして両腕で覆い隠す。
あまりにも同じ動きをするものだから、2人は双子か兄妹に見えた。
「怒ってない、呆れてるだけ。大体、あんたたち部活はいいの?」
「こんな天気じゃスマッシュ決めてもいい気分にならないじゃーん。」
「僕もレポート作成とかつまんないことやらされてたから、サボっちゃった。」
羽柴はソフトテニス部、黒柳は天文学部。
そもそもとして彼らは神聖なる美術部の部員ではないのだ。
典型的な口下手で不器用な性格の新島。
今年度は新入部員の出入りが一切なく、幽霊部員を除けば部員は実質新島ひとりになってしまったことを良いことに、時間を縫っては彼女の下へ遊びに来ていた。
「怠け者に見せる絵はない。他にやることがあるなら、そっちを優先しなさい。」
「新島先輩ってば本当に真面目。人ってサーモグラフィーみたいにたくさんの色で構成されてるんだよ?たまには、なんでも投げ出して好きにやりたい時あるじゃん。」
「そうそう、もっと気まぐれにいきましょうよ。」
〈新島〉
高校3年生。限界集落部と化した美術部でもくもくと絵を描き続けている。不器用で人付き合いは苦手だが、感情の機微に敏感で、洞察力が高い。
〈羽柴〉
高校2年生。明るくいたずら好きな少女で、黒柳とともに何かしら新島に絡んでいる。ただ、絵を描く新島の姿と彼女の作品が大好きなのは事実。
〈黒柳〉
高校2年生。羽柴によく似た少年で、彼女とともによく美術室を訪れる。
「……あ、ハルサキ。」
床の上で本を読んでいた彼は、病室のドアの前で立ち尽くしていた俺に気が付くと、いつもと変わらないようにして笑顔を浮かべた。
人懐っこい感じの明るい笑顔。
死に向かっている人間のできる表情には到底見えなくて、俺はそれにどんな顔をして返せばいいのか分からなかった。
そんな俺を見兼ねてか、ヤギはこちら近づくように手招きをした。
「来てくれてありがと。やっぱり動けないと暇だからさ、会いに来てくれて嬉しい。」
「……今日は調子、いいんだな。」
「めっちゃ元気!」
両手でピースを作り、俺の目の前まで持ち上げる。
簡素な病衣の袖、その隙間から見える、青い血管の浮き出た細い腕。
具合は良さそうではあるが顔色も悪い。
ヤギの振る舞いとは噛み合わず、病魔に蝕まれている身体が見ていて痛々しく、臆病な俺は駄目だと分かって目を逸らしてしまった。
「ハルサキ?」
その声にハッとして目線を上げる。
「……ごめん。」
「はは、謝らないでよぉ。おれさ、できればみんなには普通に接してもらいたいの。入院してから痩せて、前みたいに大はしゃぎすることはできないけど、またくだらないことで笑っていたいじゃん。」
そこまで言い切って彼は自身の手首を見た。
透明の管が繋がり、数種類の液体が弱った彼の身体をギリギリに維持している。
目の下にできた濃い影は取り憑いた死神を連想させた。
ヤギは小さくため息をつくと、言いたくなさそうに、半ば諦めたような声色で呟く。
「もう、あんまり時間ないし。」
半年前、ヤギは倒れた。
俺を含む友人たちがそれぞれ忙しくしており、互いに頻繁な連絡も取れずにいた頃だった。
天涯孤独の彼はしばらくの間不調を誰にも相談できず、気が付いた時にはもう手の施しようがなくなっていた。
今だって気休め程度の緩和ケアを受けているだけに過ぎない。
ヤギはもう死ぬ人間。
それはどうしても変えられない事実だ。
「でもさ、だからこそ最期くらいはたくさん笑ってないと、勿体ないよ。ほらハルサキも、にこにこー。」
「……無理だよ。俺、お前みたいに切り替えられない。」
ずっと不思議に思っている。
どうして死ぬとわかっていて、彼は嘘でも笑顔を絶やさずにいられるのだろう。
いなくなるんだぞ、この世から。それも永遠に。
もしも俺が彼の立場だったら、唐突に失われた本来であれば掴めただろう未来をただ切望し、それでも変わらない現実に悲観して、全て投げ出したくなってしまっていたに違いない。
でもヤギは見たところ、死ぬことを受け入れてしまっている。
自分とは違い過ぎる冷静さに、俺はもはや一種の神秘を感じていた。
「……じゃあ、ひとつ頼まれ事してくれる?」
ヤギは少し神妙な声でそう言った。
軽く俺の腕を取って引っ張り、ベッドのサイドへ座らせる。
とん、と骨ばった指先を俺の胸へ直接突き立てた。
「そこに……そこにある全部のうちの、2か3くらいの割合で、おれの居場所をつくって。」
「居場所?」
「そう。おれがこれから死んじゃっても、形を変えて生き続けられるためのところ。」
それでもなんだか意味が上手く掴めなくて、俺は次のヤギの言葉を待つ。
「おれは確かに死ぬ。だけど、さっぱり消える訳じゃない。おまえの目は確かにおれを映して、おまえの耳は確かにおれの声を聞いた。おれが生きていたって証拠、おまえは全部持ってる。」
ヤギは、この瞬間も俺はヤギのことを体で記録しているのだと付け足した。
スピリチュアルか、そう一瞬考えたが、多分そういうニュアンスの話ではない。
彼は俺の精神性に話しかけている。
「つまりは、ハルサキの心次第でおれってまだまだ生きるの。ハルサキだけじゃないよ?シンヤさんも、コトも、みんながおれのこと考えてくれてる時、おれはその場に留まることができる。」
俺の胸に突き立てられた人差し指で、ヤギは徐ろにハート型をなぞり、それを細い糸で繋げるかのように自分の心臓位置へ持っていった。
「毎日じゃなくていい。流れ続ける日常の中、ふと感情に取っ掛かりができた一瞬でいい。どうかその時だけ、その時間だけおれのために使って。」
「……それが、お前がまだ生きているという理由になるから。」
「そう!」
〈ハルサキ〉
28歳の会社員。温厚だが優柔不断、肝心なところでいつも勇気を出せない自分が嫌い。
〈ヤギ〉
25歳。ハルサキの友人で、重病を患っている。明るく快活に振る舞う。