あお

Open App
12/27/2025, 10:59:23 PM

 食卓に置かれているのは温かいご飯ではなく、シワのない千円札が二枚。毎日必ず置いてあった。
 父と母は二人きりで外食をするのが好きだった。二人だけの世界をいつまでも大切にしていて、そこにボクが入る隙などない。
 両親にどんなに嫌気がさしても、ボクには家を飛び出す理由がなかった。ボクがいない間に両親が帰ったらと思うと、その場を離れたくなかった。
 ボクの孤独に気づくことなく、両親は寿命を終えた。時を同じくして、親友が進学を理由に地元を離れると言った。
 幼馴染みが親友の引っ越し先をしつこく聞いてきたから、教える代わりに幼馴染みと一夜を共にした。
 親友を売ったバチが当たったのだろう。生まれてきた娘は、ボクではなく親友に懐いている。
 幼馴染みは母親としての責任を放棄して、好き勝手に遊び歩いている。だが、離婚という選択肢はない。幼馴染みが、いや、妻が……帰ってくるかもしれないから。
 ボクはいつまで家族を待ち続ければいいのだろうか。
 ボクを待っていてくれる人はどこにいるのだろうか。
 孤独が支配する頭で考えた結果、この年で家出を決行した。親友と娘には、ちゃんと置き手紙を残す。
『君たちはとても仲良しだね。ボクは蚊帳の外で少し寂しい。だから実家に帰らせていただきます』
 スマホを片手に漢字を調べながら、紙の上にミミズのような文字を走らせた。それだけで虚しさが込み上げてくる。
 親友と娘がクリスマスケーキを買いに出た少し後、ボクも家を出た。
 食卓に紙切れを残し家を後にする。ボクの両親がやったことと同じ。だけど、気持ちは全然違うのだろう。
 寒さで水溜まりが凍るように、ボクの心も凍りついている。凍てつく鏡に両親を映して、娘に同じ孤独を味あわせている。
 両親から悪い子育てを学んだ。自分のしていることが間違いだとわかる。だけど、正解がわからない。どうしたらいいんだ。
 誰か、ボクの凍てつく鏡に正しい子育てを映してくれないか。

12/26/2025, 4:17:02 PM

 しんしんと雪が降る寒い夜。視界の先で白がヒラヒラと舞いながら景色に溶けた。
「随分と積もったなぁ」
 そう呟く俺の手を少女がぎゅっと握る。子供のわりに大人以上におとなしい。この子は雪に見向きもしない。
 もし俺が今、一人だったら。確実に積もる雪を踏み荒らして、縦横無尽に足跡をつけていただろう。
「お父さんのおうち、まだ?」
 少女が俺に尋ねる。
 お父さんのおうち……もとい、親友の実家に向かっている。この子にとって初めて訪れる地だから、ゴールが見えないのが不安なのだろう。
 お父さんのおうちには、まだ辿り着かないかどうか。答えは「まだまだ先」だ。
 街灯が少ない田舎町。同じような景色が続く。刺激が寒さしかないのでは、退屈にもなろう。
「お父さんのおうちはね、この町の一番高い場所にあるんだ。まだまだ先だよ」
「そっかぁ」
 少女は暗い声を出す。俺だって、本音では行きたくない。長い長い坂を上るだけでもキツいのに、雪道を歩かないといけない。
 事の発端は、親友の家出だ。理由は俺とこの子の仲が良すぎるから。蚊帳の外で寂しいそうだ。いくつになっても子供じみたことをする。しかも、家出と言いながら、行き先はしっかりと伝えてるし。構ってほしいなら素直に言えばいい。
 俺たちに非がないだけに、迎えに行かずに帰りたくなってきた。
「ねぇ」
「なに?」
「雪だるま作ろうか」
「お父さんが待ってるよ」
「待たせておけばいいよ」
 少女の返事も聞かず、俺は雪を集める。無心で雪を丸めていると、少しだけ寒さが遠退いていく気がした。
 辺りに枝や石は落ちておらず、のっぺらぼうな雪だるまが完成した。
「お顔はないの?」
「朝まで残ってれば、誰かが顔を作ってくれるかもね」
「そっか」
 少女が寒そうに腕を擦った。遊んでないで先に進むべきだった。
 俺が雪だるまを作る間、手伝うでもなく、ただ見ているだけだった。体を動かして少し温かくなったのは俺だけ。「一緒に」と声をかければ、やってくれたかもしれない。
 控えめなのか、他人に無関心なのか、一匹狼なのか。よくわからない子だと思う。学校でも同じように、ただ周りの子を見ているだけなのだろうか。友達はいないらしいし、少しばかり心配になる。
「行こうか」
 少女は再び俺の手をぎゅっと握った。
 どうすれば少女は笑ってくれるのだろうか。子供――まして異性の扱いに慣れない俺が、何をできるわけでもなく。
「ここはオジサンの故郷なんだよね」
「うん。俺だけじゃなくて、君のお父さんとお母さんの故郷でもあるよ」
「この町は夜でも少し明るいね」
「それは雪が降ってるからだよ」
「雪が降ると明るくなるの?」
「うん。雪が光を反射するから、ぼんやりだけど明るく見えるんだよ」
「そうなんだ。綺麗だね!」
 幻想的な景色を見て、少女は嬉しそうに言った。その笑顔は雪明かりの夜に映える。
 この笑顔を見るために、今夜があるのかもしれない。そう思うと、親友の家出も許せる気がした。

12/1/2025, 5:42:09 PM

「オジサンに質問」
 右腕をピンと挙げて、親友の娘が言う。
「何かな?」
「凍てつく星空って何?」
 明確な答えがすぐに出てこず、俺は言葉をつまらせた。
 季語に『凍星』がある。解釈が雑でいいなら、凍てつく星空で意味も合ってる。
「冬の星空のことだと思う」
「星空って凍るの?」
 真っ直ぐな目で疑問を口にするこの子に、望む答えを与えたい。しかし、あまりにも問いが難しい。結論から言えば、星空は凍らない。
「とりあえず、外に出てみようか」
 星は凍らないが、物質は凍る。そんな難しい話をしても仕方がない。物理学の話を始めたら、それこそ『星空は凍るのか』という問いから脱線してしまう。
 大気が凍るから、星がより輝いて見えるんだ。と、体験してもらえたら、説明は十分じゃないか。
 文学的に話したほうが、きっとわかりやすい。
 娘に防寒対策を施す。といっても、もこもこした服を着せただけだが。帽子に耳当て、手袋も忘れてない。裏起毛のズボンも履かせた。準備万端だ。
 玄関を開けるなり、娘が身を縮める。
「うー、寒いねー」
「うん」
 即答で同意するほど寒い。近所の丘に行こうと考えていたが、庭でもいいだろうか。空が見えれば、どこでもいいよな。
「庭で話をしよう」
「うん」
 濡縁に腰かける。
 将来に想いを馳せて建てた家だ。しかし、まだ見ぬ妻が世話をする予定の花壇もなければ、いつしか授かるであろう我が子が可愛がるはずの犬もいない。俺の目にしか映らない幻想だけが、この庭に広がっている。
 ただ広々としているだけの庭から、空へと視線を移した。
「空を見てごらん。星が凍るように輝いている」
「星さんは寒さで凍っちゃったの?」
「星は凍らないよ。ものすごく温度が高い……と言えばいいのかな?」
 子供に説明するって難しい。あまり詳しく言っても伝わらないし、雑な説明は語弊がある。
 あくまで文学的に話したいのに、この子の質問がロマンより現実を求めている。
 一旦、話題を反らそう。
「夢を見たいのか、現実を見たいのか。君はどっちかな?」
「夢を見るには現実を知ってなきゃ。現実を見るときも、心には夢を抱いている方がいいんだよ。どちらか一つだけを見てると、人の心は迷っちゃうんだって」
「ほう」
 この子は本当に小学生か? もしかして、今時の五年生って、友達とこんな話する? 俺が同じ年の頃は、アニメや漫画の話をしたり、ゲームの攻略を話し合っていたけどな。総じて、見たいものしか見ていなかった。
 大人になった今も、それは変わらないかもしれない。
 参ったな。この子にはいつも現実を見せられる。先の質問も、半端な回答じゃ通用しない気がしてきた。
「凍てつく星空が何かってことだけど、オジサンは上手に答えられない。ごめん」
「どうしてオジサンが謝るの? こうやって星を一緒に見てくれるだけで嬉しいよ」
 二人で同じものを見て、感じたことを話す。それだけで、十分なんだ。
 目の前の小さな幸せから目を反らし、高すぎる理想を追うなど、贅沢だった。
 新たな気付きをくれたこの子への、感謝の言葉を探す。そのうちに、喉の奥から短歌めいた調べが滑り出た。
「現実は 夢の中より 温かく 涙に溶ける 凍りし星よ」
「ん? なに、なに? 今のどういう意味?」
「オジサンも君と星を見れて嬉しい。そう言ったんだよ」
「そうなんだ」
「さて、今夜は冷える。そろそろ家に入ろう」
「また、一緒に星を見ようね」
「うん」
 体はすっかり冷えてしまったが、心だけはポカポカしている。

12/1/2025, 6:59:09 AM

 お父さんは夜に仕事をしている。わたしが学校へ行っている間は眠る。学校から帰る頃には、仕事へ行く支度をしている。親子の会話などほとんどない。
 それでもどうにかコミュニケーションをとるために、お父さんの親友の提案で、交換日記を用意した。数十冊にまで増えたノートを眺めて、少しだけ悲しい気持ちになる。
 お父さんはそんなに字が綺麗じゃない。ギリギリ読める程度。対して、交換日記に書かれた字は達筆。つまり、お父さんではない別の誰かが書き記しているのだ。そんなの一人しかいないけど、気づかないふりをしている。
 思い出を振り返るように、昨日のページを開いた。
『十一月三十日。男は仕事から帰宅するなり、交換日記を開く。眠気で重くなる目蓋を懸命に開いた。そこに書かれた文章を脳に焼き付けるように、一文字ずつ大切に目を通す。ノートに書かれている娘の学校生活は、至って平凡なものだ。しかし、男には毎日が輝いているように見える。娘の生きる日々が、男にはかけがえのないものだから。男は娘に思う。お前の紡ぐ人生が、幸せな方へ進むことを祈る、と。』
 お父さんはこんな書き方をしないと思う。それ以前に、面倒臭がって文字を書かない。きっと、親切な誰かさんが、お父さんの様子を書き記している。そうだと思いたい。
 わたしは続きにこう書いた。
『男は交換日記を読み、娘の幸せを思う。しかし、何故だろう。決して娘と会話しようとしないのだ。娘はずっと不安に思っていた。お父さんはわたしのことが嫌いなのか、と。そして、いつしかこう考えるようになった。お父さんが勤めるお店に行って、ちゃんとお金を払ったら、わたしともお話ししてくれる?』
 ちょっとだけ本音を交えた。この続きがどうなるのか、少しばかり不安だ。ページを捲るのが怖い。
 震える手でページを捲ると、既に続きが書き記されていた。今日の分だ。
『十二月一日。男は娘の本心を知る。しかし、娘が父と会話するために金銭を支払うのはおかしい。店に行かずとも、家で話せばよいのだ。私が娘に寂しい思いをさせたのだと、男は悔い改める。娘に挨拶をする。それだけでも、コミュニケーションはとれるはず。男は自分に言い聞かせるように呟いた。大丈夫。ちゃんと愛情は伝わる。』
 お父さんの懺悔と共に、店には行くなと書かれている。それはそうだ。ホストクラブは、未成年が入れる場所じゃない。仮に入れる年齢になっても、お父さんから『父親』を差し引いた『男』の姿を見たくない。
 今、お父さんは仕事へ行く支度をしている。鏡の前で「今日も世界一かっこいいな」と、自画自賛。毎日のルーティンのようだ。
 わたしの視線に気づいたお父さんが、ゆっくりと近づいてくる。
「帰ってたのか」
「うん。ただいま」
「おかえり。父さんは今から仕事に行くけど」
「いってらっしゃい」
 わたしの頭をくしゃっと撫でて、お父さんは家をあとにした。撫でられたところが少しあたたかい。
 交換日記で少しずつ紡いだ物語が、現実になろうとしている。今日はどんな続きを書こうかな?

11/24/2025, 9:07:33 PM

 式場の下見まで終えたタイミングで、婚約者に逃げられた。まさか、自分がそんな目に遭うとは思わなかった。
 婚約者の逃亡から数年経った今も、精神的なことが何も解決していない。
 本当は婚約者と暮らすために建てたこの家も、今では親友の娘と暮らす家になっている。一応、親友が帰宅する場所もここのはずだが、彼は滅多に帰らない。
 親友家族が元々住んでいた家もあるわけで、そちらに帰るのが普通だ。俺に気を遣って娘だけをこちらに帰してくれるのだろう。娘も心配しているらしく、俺を一人にしたくないと言った。
 苦い記憶を封印しておくための箱を用意した。その中に、自分の名前だけが書かれた婚姻届と、婚約者のために選んだ結婚指輪が入っている。ずっと捨てられずにいる物。
 箱の鍵は俺が管理している。いつでも開けられる箱に何の意味があるのか。指輪を眺めては落ち込んでしまう日々を想定していたし、実際にその通りなのだ。
 親友も妻に逃げられている。俺の気持ちがわからないわけではない。だからなのか、俺の無意味な行為を止めたりしない。ただ、慰めてもくれない。似通った痛みを語らって傷を舐め合う仲でもない。
 親友との関係に不満を抱くことはなくても、寂しさを感じずにはいられないのだ。俺たちは幼い頃から言葉足らずの関係である。

 今日も箱を開けようとしたが、どうしてなのか、鍵が見当たらない。鍵の保管場所は決まっている。
 箱の中身を知っているのは俺と親友のみだが、箱と鍵の存在なら娘も知っている。
 親友が持ち出したとは考えにくい。その理由がないからだ。もちろん、娘が持ち出す理由もないが、持ち出さないと言える根拠もない。失くした事実だけは伝えてみようか。何か知っているかもしれない。
 思った矢先、ガチャっと扉が開く音が聞こえた。娘が学校から帰宅したのだろう。もう、そんな時間なのか。
「おかえり」
「ただいま」
 娘は普段通りの態度で俺の横を通り過ぎる。根拠なく疑うのは心苦しいが、この娘は空気を読みすぎるところがある。女の勘というやつも鋭い。俺が今、何を考えているかも、読まれている可能性がある。手強い相手だが、俺だって娘の弱点を把握している。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん」
「箱の鍵を失くしてしまってね。どこかで見かけなかった?」
「し、知らない!」
 娘は慌てた様子で部屋に入っていく。真っ黒だと自白しているようなものだ。俺は箱を手に持ったまま、追うように部屋に入った。娘は何やらベッドの下を漁っている。そこに鍵を隠していたのか?
「何をしているのかな?」
 娘の体からビクッと跳ねる。そのまま硬直してしまった。頭隠して尻隠さずとは、まさにこの事。
「オジサンは鍵についてちゃんと話がしたい。君はどうかな?」
 娘は声を震わせながら、しかし、ハッキリと言った。
「鍵なんてない方がいいんだよ」
「どうして?」
「箱があるとオジサンが悲しそうな顔をするから。箱が開かなくなれば、見ることもなくなるでしょ」
 俺が箱を開くのは、娘が学校に行っている間と、寝静まった真夜中だけだ。大丈夫だと過信して、リビングで箱を開けていたが、真夜中なら見られる可能性は大いにある。
 娘が鍵を隠したくなるほど、俺は悲しそうな顔をしていたのか。確かに、中身は決して気分を高めるものではない。
「君の言い分だと、箱を捨てるのが妥当じゃないか?」
 純粋な疑問だ。鍵を隠しても、悲しみを絶つことにはならない。箱を壊せば中の物は取り出せる。
「お父さんが言ってた。箱の中にはオジサンの心の傷が入ってるって。でも、それって、ちょっと違うと思う。傷ついた心が入ってるんだよね? オジサンの心を、わたしが勝手に捨てるなんてできないよ」
 親友が自ら箱の話をするとは思えない。娘から詮索していたのか。明らかに怪しい箱があれば、気になるだろう。普段は鍵と箱がリビングに揃って置いてあるし、いつでも開けられる。
「中を見たの?」
「見てないよ。でも、大切なものだって、わかる。見たら悲しくなるのに、毎日眺めてるから」
 親友とは違って、娘は俺の傷を舐めようとする。それはまるで、動物が本能的に傷口を舐めるかのように。
 この子は誰に似たんだろうか。親友でも、俺でもない。もちろん、この子の母親でもない。誰にも似てないのは、環境がそうさせているからだ。俺たちはこの子に、たくさんの気遣いを強いている。
「よかったら、一緒に中の物を見てくれないか」
 数分の沈黙のあと、娘がベッドの下から出てきて、鍵を俺に手渡した。受け取って箱を開ける。
 娘は婚姻届をじっと見ている。眉間にシワを寄せて。
「結婚したいくらい好きな人がいたんだね」
「好きではなかった」
 口に出して改めて実感する。好きではなかったし、嫌いでもなかった。相手にも結婚にも、関心がなかったのだ。親に孫が見たいと言われたから、目標が『孫』に設定されただけ。俺と年が近い相手も、同じく孫をせがまれていたらしい。俺たちの付き合いは愛や恋ではなく、利害の一致でしかなかった。相手は俺じゃ嫌だから、最終的に逃げる選択をしたのだろうけど。
 そんな話を娘にする必要はない。だが、これだけは伝えておきたかった。相手を愛していたわけじゃない。
 俺が愛しているのは君だけだよ。と、言えたらもっと良かったのだが、親友の娘に手を出すほど愚かでもない。
 君が隠した鍵は、本当にない方がよかったのだろうか。傷ついた心の奥で新たに生まれた愛情は、やはり隠しておくべきだろう。

Next