時計の針はいつも一定に、美しく残酷でありました。
「時計の針」
暗い部屋で一人、私は。
なぜそうなったのかも理解できず、床に伏していたのです。
常に酸素が足りなくて、胸の辺りがズキズキ痛む。
励ましてくれる人はおらず、唯一愛した恋人は戦へ出向いておりました。
いつまでも、一人ぼっち。それが私でありました。
それから、哀しくも何年待とうと、彼は帰ってきませんでした。
私の病も深刻化して、とうとう声すら出せなくなった。
日の光の無い暗い部屋では、時計の針だけが鳴っています。
【誰か助けてくれますか。】
不安で苦しくて、叫び出しそうなほど辛いのです。
頭が朦朧として何も、なにもわからないのです。
何もおもいだせません。
きりのように消えるのです。
彼をわすれてしまうのが私はとてもこわいのです。
あのやさしく低い声を。へいたんで頼りのない顔を。おおきくて男らしい手を。
わすれたくはないのです。
けれど。
けれども、とけいの秒針はいっていに時を刻んでいます。
わたしの命をかくじつに、とけいがさらって行くのです。
…むねがとても痛いのです。
病のいたみではない、別のなにかが、わたしの心をしめつけます。
それは、そう。だれのことでしょう…?
一つ、私が贈った時計を持って、戦へ出向いた誰かも同じ気持ちなのでしょうか。
【おねがい。たすけてくださいな。】
命がきえてしまいます。
きおくのなかにいる、だれかの命が。
なにもわからないのです。
けれどわたしはそれが、どうしようもなく怖いのです。
これは、
誰かの人生である。
日記の一節である。
秒針の一つの波である。
文法も辿々しく、彼女の病気も、見ていた景色も何もわからない。
けれど、いつまでも「彼」だけを想うこの文章を見るたびに。
私の胸は熱くなり、頭には小さな時計の針がチクタクと鳴り響いているのです。
「海の底」
夜の海へ出かけると、人魚に魅入られて海底へ連れ去られてしまうらしい。
「だから夜に出かけてはいけないよ」
父や母は子守唄のようにそんな言い伝えをよく話してきた。
上半身は人の姿で、下半身が魚の尾。嵐の前に現れ、美しい歌声で人を魅了し、船を沈ませる。厄災の象徴。
しかし、そんなものはただの言い伝えに過ぎない。
なぜなら僕は知ってるからだ。
8月の夜、海沿いに面してる窓からその姿を見た。
人が、女性なのか男性なのかわからないほど、辺りは暗くて。それでも、海の水面にキラキラと反射する尾が美しく。ここらでは見慣れない青い瞳が、暗闇でもわかるほど怪しく輝いていたことを、よく覚えていた。
おいで、おいでと優しくあやす様な歌声に、気がついたら眠ってしまっていたけれど。
あれが人魚だと云うのなら、厄災の象徴と云うのならば。それはなんて…
言い伝えの船乗りは、人魚に魅入られ海の底へ落ちたらしい。
美しい歌声に包まれながら。
でも、きっと。
海の底へ落ちるのは人魚に魅入られるからではない。
人魚に魅了されるから落ちるのだ。
あの人魚のいる海底へ連れ去られてしまったのは、僕自身ではなくて、僕のちっぽけな恋心だった。
戻れなくなるとわかっていても、僕は。
あの美しい歌声に、包まれて死ぬのを望んでしまうんだ。