わたしは幼い頃、母が嫌いだった。
正確には、母の口紅のにおいが嫌いだった。
だから抱っこを嫌がった。
そのうち母は抱き上げもしてくれなくなった。
母は働いていたから、いつも化粧がにおっていた。
幼児期は鼻が敏感なのか、わたしはそれが苦手だった。
そのうち母はわたしに関心を持たなくなった。
母のネグレクトは、わたしのせいなのかもしれない。
【紅の記憶】
助けて。苦しいよ。
ゴボゴボ水の音がする。
助けて。
小学生のわたしは目を醒ます。水中の夢の断片が、わたしにぐっしょりと寝汗をかかせていた。
ベッタリ体に貼り付いたパジャマを見て、起きてきた兄が驚く。夢の断片を話すと、声を抑えて囁かれた。
「お前、昔、親に、水に沈められたんだよ」
当時わたしは不思議と水が怖かった。顔を洗う時も顔を水につけられなくて、猫が顔を洗うように、片手に水をすくって顔を撫でて洗っていた。その理由がわかった気がした。あの夢は物心つく前の記憶だったのかもしれない。
【夢の断片】
目の前に、モヤモヤした生物がいた。
悪魔? それとも妖怪?
事の発端は、古書店で見つけた怪しげな古書だった。
たどたどしく文字を調べながら声に出して読み上げたら、このモヤモヤがいつのまにか目の前にいたという訳だ。
モヤモヤは僕の心に語りかけた。
(きみは何を望む?)
僕は......僕は、ためらいながら、好きな子への想いを叶えたいと答えた。
(契約成立だ)
モヤモヤは僕の両目をえぐり出した。
僕は失明した。白杖にすがる日々が始まった。
そして僕の思い人は、いつしか僕の介護士になっていたんだ。
今の僕は、目は見えないけれど、幸せだ。
【見えない未来へ】
大きくなったら、何になりたい?
「ねこ!」
ねこになるのが夢だった。
だって殴られないし、撫でて貰えるし。
何より、愛されたかったし。
進路相談は、最初は中学受験の時。
親にこう言えと言われた通りに面接で言って、理由に詰まった。まさか親が怖くて、とは親の前だし言えなかった。
中高一貫校に進み、大学受験期が到来した。
わたしは夢のために専門学校に行きたかった。
自分で幾つか選んで、学校見学もした。
でも親はわたしの夢を全て揉み潰した。
四大卒しか認めない、有名校へ行けと言われた。
お前より世間体が大事だとはっきり言われた。
わたしは夢を、自分の人生を諦めた。
親の言いなりに生きるしかなかった。
心を冷たい風が吹き抜けた。
【吹き抜ける風】
記憶なんて、燃えて周囲を明るく照らす光になれば良い。僕にはイラナイ。
僕は日記を一枚ずつ破いては、ランタンの火で燃やしていた。炭がたまっていくので、刷毛で払いながら。
このランタンは古道具屋で買った。
アルコールランプをシェードで覆った感じのものだ。
僕の日記が燃えていく。過去なんて、イラナイ。
そう思って日記を焼いていたはずだった。
ふと我に返ると、自分が何をしていたのか、わからない。手にはもう白紙のページしか残されていないノート、反対側の手には刷毛。古めかしいランタンが明るく燃えていて、煤がいっぱい周囲に積まれている。
そう、僕は自分の記憶を焼いてしまったんだ。
今の僕には、自分が誰かすら分からない。
【記憶のランタン】