センチメンタル・ジャーニー
僕はセンチメンタルな人間だ。若い頃はそれを理由にからかってくる奴もいて、自分のセンチメンタルな部分にコンプレックスを持っていた。だが今はもう、自分のセンチメンタルさを受け入れつつある。
僕のような人間は、旅行に限らず全てのことがどうしてもセンチメンタルになってしまう。ショッピングでも読書でも、筋トレさえもどこかセンチメンタルだ。
もちろん旅行は、日帰りだろうが一ヶ月の長期旅行だろうがセンチメンタルになる。やはりジャーニーといえばセンチメンタルだと僕は思う。センチメンタルじゃないジャーニーを想像してみてほしい。ロジカル・ジャーニー? クール&ドライ・ジャーニー? そんなの僕はごめんだ。ジャーニーにセンチメンタルはつきもの、傷ついた心のままに泣いてこそだ。
さて、今は九月の中旬。実はこの季節こそセンチメンタル・ジャーニーにピッタリのシーズンだ。センチメンタル・ジャーニーというと、枯葉舞い散る秋深まる頃が似合いそうだけど、初心者にもお勧めしたいのが九月のセンチメンタル・ジャーニー。センチメンタルの理由はなんでもいい、終わってしまった恋、全てがうまくいかない人生でも。
乗り込んだ列車の車窓の外を流れていく景観は、まだ夏の風景。だけど夏に生い繁った鮮やかな緑が、いつの間にか薄れていることを知る。「季節が行ってしまう感」に傷ついた心を重ね合わせて、思いっきり胸を締め付けられてみる。切ないBGMを流せば効果up、センチメンタル全開でいこう。
さらに旅先でふらりと入った良さげなカフェで甘いスイーツを注文するのもおすすめ。「人生に必要な甘さとは……」なんてセンチメンタル気分を爆上げできる。
僕的には観光客でにぎわう有名店より、地元の常連客しかいないような店の方がベター。程よい疎外感があり、良質なセンチメンタルを味わえる。
余裕があればフラフラと歩いて傷口をえぐるセンチメンタルスポットを探すのもいい。でもどんな旅であろうと、センチメンタルを思う存分満喫する、それが僕のセンチメンタル・ジャーニーだ。
ちなみに僕はほぼ毎月センチメンタル・ジャーニーに行くのだが、他の旅行客を見た時、あ、この人今センチメンタル・ジャーニー中だなってピンとくるようになった。ふと遠い目をしたり風に吹かれたりなんかしてたら、もうほぼセンチメンタル中だと思っていい。
僕くらいになると、これは傷心したてのセンチメンタルだな、とか、いつまでも過去を引きずるタイプのセンチメンタルか、とか色々分かるようになる。ちょっとした連帯感は感じるけど声をかけたりはしない、センチメンタルなんで。せいぜい軽い会釈をするくらいだ。
でも過去に一人だけ。一目みて、これは気合いの入ったセンチメンタルだって分かって意気投合した人がいる。今の妻です。
君と見上げる月…🌙
「ねえねえ、見てよ、月がきれい、すごく大きいよ!」
夜空にぽっかり浮かんだまんまるな月を見て、僕は思わず叫んだ。
「まだ月が地表に近い時間帯だからそう見えるんだろう」
父はその時何かを読んでいたのかもしれない。めくるページから目も上げなかった。
「外に出たら、もっときれいに見えるよ」
僕は父を外に誘った。父にも明るくて大きな丸い月を見て欲しくて。
「夜は冷えるから外に行くなら何か羽織っていけ」
でも父はそう言っただけだった。
外に出た僕はしばらく一人、明るく光を放つ月を眺めていた。何か意地のようなものがあったのか、僕は父が外に出てくるのを待っていた。結局父は外に出ることもなかったし、そろそろ中に入れ、と声をかけることもなかった。いつの間にか僕はそのまま寝入ってしまって、気がついた時にはもう家中の電気が消え静まり返っていた。僕のことはすっかり頭から抜け落ちてしまったらしい。
笑える話だが、いつも僕の胸をちくりと刺す忘れ難い記憶だ。
父は万事そんな調子の人だった。冷たい人ではないけど、自分の世界が何より大切で、その閉じた世界に生きているような人。
あの夜、大きな月を一人で見ながら僕は気づいた。父にとっては、息子である僕も父の周辺にぼんやりと存在しているたいして興味の持てないものの一つにすぎないと。
母はそんな父に見切りをつけたのかすでに家を出てしまっていた。母が去った朝でさえ父は、いつもと変わらず新聞を広げ黙ってコーヒーを飲んでいた。
そして母が家を出た時僕を連れて行かなかった理由の一端を、今では理解している。結局僕もまた、父と同類の人間だということだ。感情をおざなりにしがちという点で特に。
父がこの世から去ってから結構な年月が経ったのに、そんなことを思い出しているのは、今夜の月がやけに明るくあの夜を思わせるからかもしれない。
「I love you」の洒落た言い回しとして「月が綺麗ですね」というのは有名だけど、実に適切な意訳だと思う。一緒に月を眺めたいと思うのは、そういうことだ。父と一緒に月を眺めたかった幼い頃の僕が、今ではひどく懐かしい。
小さい頃の1人きりの月見が原因というわけではないが、あまり月を見上げようとは思わない。それでも月の美しさは理解しているつもりだ。
今夜の月。白く澄んだ光は僕にも届く。もし今夜、あの月の光を誰かと共有するとしたら、僕と同じように1人で夜空を見上げる見知らぬ誰かがいい。
空白
問1〜3の「 」の空白に当てはまるものを、それぞれ①〜③の中から適切なもの選んでください。
問1
彼女には度々眠れない夜が訪れる。何度寝返りを打っても眠りは遠のくばかり。夜更けに訪れるこんな空白の時間というのは厄介であることを彼女は知っていた。無限のようであり、決して無限ではない空白の時間。彼女はベッドを出て、恐る恐るpcの白い画面に「 」を打ち込んでいった。
①優しい目をしたあの人への想い
②癒されないまま放置された傷跡
③世界を自分に都合よく塗り替えるための嘘
問2
彼女の心を掬い取るように言葉は溢れ出す。空白でしかなかったはずの自分の心の奥底から思いもしない言葉が引き出され、彼女自身が驚いたくらいだ。彼女は無心でキーボードを打ち続ける。その行為はどこか「 」に似ていると彼女は思う。
①降り積もった新雪に足跡をつける遊び
②夜行列車に片道切符だけで乗車すること
③秘められた欲を顕にする官能的な行為
問3
空が白み始める頃、ようやくまどろみが彼女を包み込む。彼女はもう自分の中の「 」に気づいている。彼女は自分の内側に「 」が広がっていくのをとめることが出来なかった。
①全てを断ち切ってしまいたい衝動
②叶わないと知りながら芽生えてしまった恋心
③どんなものでも埋められない空白
台風が過ぎ去って
台風がこの街を襲ったとき、あの影を見たのは何人いただろう。吹き荒れる風の中、確かに黒い影はいたのだ。建物の中へと急ぐ人を突き飛ばし、街路樹を揺らし、窓ガラスを叩いては割り、駐輪場の自転車を蹴り倒していく影を私は窓から見ていた。影は、けたたましく笑っていた。
影と目が合ってしまったのは、プランターを玄関に運び入れている時だった。向かいの家の庭に咲いたテッセンの花を、影は乱暴に握り潰して引きちぎっていた。影は私に気づいて顔をこちらに向けた。輪郭もはっきりしないような黒い影なのに、その表情が分かってゾッとした。影の空洞のような目。その目が私を見ていた。ニタリと笑って影は言った。
「よう。おいでよ。俺の嫁にしてやる」
瞬間、黒い風が竜巻のように巻き上がった。身体が浮くような気がして私は咄嗟にプランターを抱えてしゃがみ込んだ。影は私に覆い被さって耳元で囁く。
「知ってるぞ、お前。お前、俺のこと見てただろ。お前も壊したいか?だったら俺と一緒にこの街、全部めちゃくちゃにしてやろうぜ」
怖くなって私は影を押しのけ、プランターを投げ飛ばして家へ駆け込み、鍵を回した。影はドアを壊れそうなほど強く叩き、しつこく叫び続けた。
「こいよ、俺の嫁にしてやるって言ってんだ!」
私は耳を塞ぐ。ドアを叩く音は強まっていき、影の叫び声なのか暴風の音なのか分からなくなる。私はただ、早くこの暴力が過ぎ去ることだけを祈っていた。
台風は街に爪痕を残して去っていった。
暴風雨の後の、やけに晴れやかに澄み切った空を見て私は胸を撫で下ろす。でもあの影の笑い声はまだ耳の中に残っていた。
街のみんなは何も言わなかったけど、あの影を見たのは私だけじゃないと思う。
だってあの台風が過ぎ去った後、街の人々は少しおかしくなった。誰もがどこかピリピリし始めて口数が少なくなった。笑顔は消え、目に翳りを抱えたまま下を向いて歩くようになった。何かを疑うようであったり、常にどこか怯えていたり、何かを必死に押し殺していたり、あるいは無気力さを隠しもしなかったり。街の人たちは変わってしまった……きっと私と同じように、あの影に何かを囁かれたんじゃないだろうか。
気がつけば私も、あの影のことばかり考えている。あの、台風の中で好き勝手に暴れていた影。この街をめちゃくちゃにしたように、人々の心まで破壊して傷を残していったみたいだ。妙なことばかり考えてしまう。あの影は、見た人の心をかき乱してひっくり返し、隠さなくちゃいけないものまで揺り起こす、そんなものだったとしたら……? 影はあの空洞のような目で私の心の奥に何を見たんだろう──いや、あの影のことを考えるのはやめた方がいい。知りたくもない自分を知ってしまいそうな気がする。
でもあれ以来、台風が近づくたびに、ごうごうと音を鳴らして吹き付ける風の中にあの影を探してしまう自分がいる。あのネジの外れたような、バカバカしくて原始的な喜びのような笑いが暴風の中に紛れ込んでないか、確かめずにはいられないのだ。
ひとりきり
あなたが私の部屋にやって来るのは、いつも深夜。予告なんてなし。ちょうど私が寝入る直前、ほんの少しの隙を狙うようにして、あなたはやって来る。
あなたは当然のように私のベッドの中に滑り込む。
「天国みたいに温かい」
ようやく満たされた──そんな風に聞こえて、私はため息をつく。
「あなただけは何処にも行かないでね。あなたがいなくなったら私、本当にひとりきりになっちゃう。そしたらもう、生きていけないよ」
このセリフを言う時、あなたはいつも枕に顔を押し付けて弱々しく笑ってみせる。表情もセリフも芝居がかっていて、もはや冷笑する気にさえならない。
次の日の朝、通知が来たあなたは急いで着替えて髪の毛を整える。私がシーツに残ったあなたの匂いに埋もれてる間に、あなたはドアを閉めて男の人のところへ行く。あなたにとって私をひとりきりにすることは、息をすることのように簡単らしい。