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10/5/2025, 12:31:22 PM

moonlight〜北風と月〜


ある晩のことです。
北風が雲を蹴散らすように吹いていました。

「おや北風、相変わらず勢いがいいですね」と月が言いました。

「なあ月、なんで恋人たちは、お前ばかりチヤホヤするんだよ。月が綺麗だの、君の方が綺麗だの甘ったるい言葉を並べてベタベタくっつきやがって」

月は静かに笑いました。

「わたしは照らしているだけですよ。くっつくか離れるかは人間の勝手でしょう」
「ふん……なら俺と勝負しようぜ」

北風は不敵な笑みを浮かべて言いました
またかよ〜と月は思いました。北風は勝負が好きで、何かにつけて勝負を挑んでくる面倒くさいやつなのです。
でも月はそんなことを顔には出しません。にっこり優雅に笑いました。

「勝負ですか?」
「あの湖のほとり。あそこに人間の恋人たちがいる。あの二人、恋人同士なのに、お互い遠慮しあってまだ手も握らないんだぜ。俺たちの勝負は、どちらが恋人たちをよりピッタリとくっつけられるか!見てろよ俺の吹きっぷり」

北風は得意げに胸を張り、月の返事も聞かずに地上へと降りていきます。
「ホント好きだよなあ……」と月はそっと雲の陰から顔をのぞかせて見守りました。

──ピュウウウウゥ。
北風が吹くたび、恋人たちは寒さに震えて肩を寄せ合います。寒い寒いとくっついた恋人たちを見て北風は大喜びです。

「見ろ、あいつらくっついた、俺の勝ちだ!」

けれど北風が吹いたおかげで雲は切れ、月がその姿を表しました。湖に月の光が映し出されていきます。月の光はキラキラと夜の湖を静かにゆっくりと輝かせていきました。
それを見た恋人たちは顔を見合わせました。

「月の光って素敵ね」と恋人の一人が言いました。
「君の方が素敵さ」ともう一人が言いました。

二人の頬が赤く染まります。北風は舌打ちをしました。やがて恋人たちは静かに口づけを交わしました。

「くっそ」
「……おや、この勝負、私の勝ちということでよろしいですか?」

月が微笑むと、北風はふてくされた顔になりました。

「ちぇっ!どいつもこいつも月の光に魅せられやがってよー月が出たらおしまいだ!」

そう言うと北風は空の端へと飛んで行きました。
北風が去っていった後を、月は少し寂しそうに眺めて言いました。

「すぐ行ってしまうんだから。落ち着きのないやつ……なんでいつもあんなに最初から全力なんだろ。そよ風くらいにしたら、あの恋人たちにも君の優しさが伝わるのに」

北風が去った後、夜の空は静かです。
湖のほとりでは恋人たちがまだ口づけを交わしていました。

おわり

🌖童話「北風と太陽」のパロディです🌬️🌚

10/4/2025, 9:54:45 PM

今日だけ許して


【一日だけの恋】

誰か来ないか見張ってて。
そう言うと姉さんは、岩棚の上で濡れた体を奇妙なほどくねらせた。
月の光が海面に散っている。岩に波があたって砕けるたび、姉さんの身体からパリンと鱗が剥がれ落ちていく。
痛みを堪える姉さんのうめき声は、銃で打たれた獣が死に絶えるときみたいに苦しそうで耳を覆いたいくらいだった。それでも姉さんは笑ってる──痛いけど、すぐ慣れるの
骨の形が変わる音がした。皮膚の下でうねるように肉が動いてる。姉さんの変化をみるのは何度目だろう。年に数度、嵐が来て季節が変わるとき。何度見たって恐ろしい。呻きながら血を流し、体をゆがませて痛みの果てに姉さんは別のものになる。
……ねえ、やっぱり行くの? 
私の問いに姉さんは黙って頷いた。
─今日だけ、今日だけは、許されるの
その声が弾んでいるのが恨めしい。そんなに会いたいの?あの人間に。正体がばれたら人間を欺いた異形として引き裂かれちゃうよ。私、聞いたことがある。人間は海蛇でも何でも引き裂いて食べちゃうんだって。
けれども姉さんは、いつの間にか伸びた長い髪の毛を波間に漂わせながら岸辺へと向かう。
海から上がっても姉さんの髪や首筋には、薄い鱗の欠片が光っていた。鱗を払って着物をまとう姉さんの頬がうっすらと赤く上気しているのがわかる。人間の皮膚は薄くてすぐに裂けてしまいそう。姉さんは血の色も変えてしまったんだろうか。
姉さんはよたよたと歩き出す。足も髪も引きずって。
私は見ていられなくなった。姉さんの泳ぐ姿はあんなに美しいのに。どんなに姿を変えても、姉さんの心臓の鼓動は海のもの。あの人間は知ってるの?姉さんの本当の姿を。
姉さんの背中が震えている。
それが痛みなのか恐れなのか喜びなのか、私には分からない。
姉さんの足跡を波が消していく。遠ざかる背中を見つめながら私は祈っていた。
──神様、姉さんの歩いた浜辺が血に染まりませんように。今日だけ、今日だけはどうか、姉さんを許してください。




今日だけ許して②
【恨めし】

もうこの世のものではない私だけど、今夜だけは許されてあなたのもとに参ります……まっててね★






今日だけ許して③
【もふもふ】

え、またですか?
ダメって言いましたよね。ダメです。
無理ですって、できません。
……そんな顔をしてもダメですよ。
前から思ってるんですけど、それって可愛いつもりなんですか?
首を傾げて目を潤ませるそのポーズ。
あのね、あなたもう結構いい年ですよね。
そういうの、若い子がやる仕草なんです。
あなたには似合いません。
髭生えたオッサンのあなたがそうやってかわいこぶるの、腹立つだけなんでやめてくださいね。
しょんぼりしたってダメです。
私には通じませんよ、何年一緒にいると思ってるんですか
……ほら、またそうやってすぐ距離感ゼロになる。
その手には乗りません。
誰にでもそうするくせに。
聞いてます? 聞いてないですよね、私の言うことなんか。
ダメですって。ダメ。
今日は絶対だめ。我慢してください。
だって最近、毎日こうやって…ちょっ、だめ。
やです。何やって…
そこ触んないでください、もうっ
……あーもう、ずるい。ホントずるい。
絶対それ分かってやってますよね、私がそれ弱いの知ってて。
しょうがないなあ……
わかりました、今日だけですよ。
ちゃんと約束してください。今日だけだって。
明日また同じことしないって。
約束できます?できますよね、もういい大人ですもんね、あなたは。
じゃあ約束。
ホントのホントに約束ですよ、今日だけにしてくださいね。
それじゃ、こっち来て。そう、もっと近く。
いい子。いい子ですね。
はい、これがあなたの欲しかったものですよ。

差し出した手のひらの上のおやつを、ペロリとひと舐め。
ああ、だめだ。息が止まる。かわいい。どうしてこんなにかわいいんだ。
「今日もいい毛並みですねえ〜〜っ!」
首を傾げるわんこに抱きついた。全部の仕草にズキュンと来てるよ!今日も明日も許しちゃう、だって今日も明日も永遠に可愛いから。きっとうちのわんこは前世からずっとかわいいし、生まれ変わっても絶対かわいいよ!かわいいって伝えたい、犬語で伝えたいよ〜私は思いっきり、わんこの毛並みに埋もれた。思いっきりわんこの匂いを吸い込む。はー大好きだよ。尊いってこのこと?神様、わんこを創造してくれて感謝します、猫も好きです。このままもふもふした毛並みに埋もれて無になりたい!本当に無になんないかなー現実なんかポイしたいんだよ〜わんこ、わんこ大好き。わんこがいればいい。今だけ何も考えないでいい?もふもふだけしてたい。うーんぺろぺろしすぎだってば。な、泣いてないよ。泣いてないから……慰めようとしてくれてる?ほんとにあなたってもう……今日だけ許してこんなんで。あなたをもふもふしたらツライの何でも治るし。私はわんこの毛並みをぎゅっと抱きしめて今日もまた、もふもふの中へと潜り込む。



10/4/2025, 12:38:59 AM

誰か
(ご注意、この話には性的描写が含まれます!)


きっかけは、星宮あかりの結婚だった。
みんなで集まった食事会、あかりがいつもの調子で、まるでなんでもないことのように「私結婚するの」と報告した。
私たちは隣同士でそれを聞いていたからだった。
私はなんとなく、あかりは彼と結婚するのだと思っていた。彼とあかりは一時、別れたり離れたりを繰り返していたし、私から見てもお互いに気を許し合ってているように見えたから。
おめでとう、と笑った彼が体を強張らせているのが隣にいて分かった。
食事会の最中、隣同士の私たちは何度か身体が接触する機会があり、何度目かでそれは意図的になった。私はテーブルの下で彼の脛に自分の脛を擦りつけるようにして席を立った。

彼とホテルに向かう道で私が思っていたのはあかりのことだ。あかりは夫になる人のことはあまり話さなかったが、満面の笑顔でこう言った。
「結婚したら私、名字は夫のものにするの。だってコンプレックスだったんだよ、この名字。星宮だなんてキラキラしすぎ。星宮あかり、なんて売れない地下アイドルみたい」
あかりが昔同じことを言った時、私は「いい名字だよ、すごく素敵だしあかりに合ってるよ、私は好き」と言った。私にとってあなたは夜空で輝く星そのもの、なんて思いを込めたけどそんなこと伝わるはずもなく。
あかりの結婚相手は、日本中どこにでもいるような名字だった。「結婚したら平凡な名字になるのが一番嬉しい」とあかりは笑っていた。
結婚して名字が変わったって何も変わらない……あかりが違う誰かになるわけじゃない。
私がそんなことを考えている時、彼は何を思っていたんだろう。無言で私の手を握りしめた彼。私とは全く別の思いでいたとしても、あかりのことを考えていたのは確かだ。

その夜、ベッドに沈んで、私たちは私たちじゃない別の誰かになった。
今夜頼れるなら誰でもよかった、そう囁いたのは彼なのに、やたらと優しい触れ方をするから笑ってしまう。そんなのこっちのセリフだよ。
だからそんなに丁寧にしなくていいよ。
ここにいるのは、私じゃないしあなたじゃない。
名前を呼び合うような愛し方は、いつか巡り会う伴侶のためにとっておきなよ。
今はただ、忘れるために。
お互いの名前も、あかりの名前も。
暗がりで、彼の手が直接私の形をなぞる。肌で感じるだけが全て。
最初はぎこちなくても、呼吸は乱れて皮膚はざわついて敏感に欲を感じ取る。溶けていく場所がある、内側に。そこがわかったらもう迷わないでいい。
──男の人とのセックスで一番好きじゃないのは、中へ中へと分け入ってくる無遠慮さだ。でもこの時ばかりは四股を絡ませ夢中で彼の切実さを抱きしめた。
早く圧迫して欲しい……願った通りの質量で彼が胸を押し付けた時、私は完全に私じゃ無くなった。
私たち、同じ眼差しであかりを見ていた。だから私は彼を抱きしめたかったし、彼だってとっくに知っていたはず。私のあかりに対する気持ちはいつだって隠し通せるものじゃない、同じ熱量で彼女を見つめる彼の前では。
誰かの大切な存在になれない私たちは、肌に隙間ができないくらいぴったりと抱き合って一つになる。
それでも彼と懸命に揺らし合いながら、ふと冷静に思う。このセックスに満たされる瞬間があるんだろうか、と。ああ、そんなの後で考えればいい。このうねりの前では抗えない。もうどこかの誰かでいる必要なんてない。今はただ熱く昂って、落ちて溶けて消えるだけ。



眩しい朝の光で目覚めた時、彼は早々に服を着込んでいた。
ベッドに腰掛けて背を向けたまま、私にペットボトルの水を差し出してくる。
私は気だるさの残る身体を起こして水を受け取った。小さな声で彼が言う──ごめんな。

「なんで?謝られるようなことしてないし」
「いやだってさ、こういうのはあまり……」

彼は口を濁す。言いたいことはよく分かる。みんな言うんだよ。愛のないセックスなんて傷つくだけだって。でも気にしないで。例え傷ついたとしても、それは私じゃないしあなたでもない。別の誰かが傷ついただけだから。
多分私はそんなことを口走った。彼が私を申し訳なさそうな目で見るのが、やっぱりおかしくて笑ってしまう。そしてその時私が考えていたのはやはり、あかりのことだった。
本当にあの子は結婚しちゃうんだ。結婚して誰かの妻になって、星宮っていう特別な感じがする響きから平凡な名字で呼ばれるようになる。名前が変わっても、あかりがあかりでなくなるわけじゃない──そう信じたい。だけど結婚っていうのは、彼女をもう私が知っていたあかりじゃない、別の誰かにしていくような気がしていた。

「……あかりは、幸せになるのかな」

私の呟きに彼は返事をしない。ただ、静かに私の肩を引き寄せた。彼の胸に身を預けながら私は目を閉じる。さっぱりとした朝の光が私たちを包み込んでいた。

10/3/2025, 12:50:47 AM

遠い足音

物陰に隠れて息を潜めていた。
遠くの方でパタパタと響く足音と、見つけた!という弾む声。
まだこの物陰には気づいていないみたい。
私は膝を抱えて足音を待った。
隠れるのってドキドキする。
あの鬼の子は、もう何人も見つけたんだろう。
ここはきっとすぐには見つからない。
鬼の子は私をあちこち探すだろう、どこに行ったの?って。
やっと探し当てた鬼の子は、私を見つけて驚く
──そこにいたの?全然分からなかったよ。
それから満面の笑顔で言ってくれる、見つけたよ!って。

だけど足音は、なかなかこの物陰の方には近づいて来ない。
遠くの方で行き来するのが聞こえてくるばかり。
そのうち胸の中が心細さにひんやりとしてくる。
──見つけてくれるよね?
芽生えた不安はどんどん膨れ上がる。
やがてそれは、とてつもなく大きく育って私をいても立ってもいられなくする。
どうしよう……見つけてくれるよね?
あんなに弾んでいた胸は、冷たい風が吹き荒れてるみたい。

ようやく、ここにも足音が近づく音が聞こえて、私はホッとする。
ホントは物陰から飛び出して行きたかったけど、じっとこらえて声をかけられるのを待った。
見つかるまで隠れているのが、ルールだから。
早く、早く言ってほしい、見つけた!って。
だから私はわざと身体をずらして物音をたてた。
見つけてもらえるように膝から下をそっと物陰の外に出す。早く見つけて。ここだよ私は。

足音は私の前で止まった。
鬼の子の足元が見える。あの子の赤いスニーカー。
言って、見つけたって。
気づいてるよね、私がここにいるって。
お願い。言ってよ。見つけたよって。
私は祈るような気持ちだった。
目を固くとじてお願いお願いお願い……と鬼の子の声を待つ。待っている間って、何で永遠みたいな長い時間なんだろう。

どれくらい時間が経ったか分からない。
たまらなくなって私は物陰から出る。
そこには誰もいなかった。
もう誰の声も遠くの足音も聞こえない。
しん、と静まり返っている。

湧き上がった涙を、喉元でぐっと抑えつけて私はその場にうずくまった。
見つけてもらえなかった。
遊びは終わって、皆いなくなってしまった。
私が見つからないことに誰も気づきもしなかった。
私はここにいるよ、と大きな声で出ていくのは惨めな自分をさらに無様にするみたいで、どうしても出来なかった。
ただ悲しくて情けなくて私は膝を抱えたまま、動けずにいた。

あの鬼の子、本当は気づいてたはずだ。
私がここにいるのに気づいてたのに、何もなかったふりをした。
私を置き去りにしたんだ。
何で……あの子は私のこと嫌いだったの?
私はあの子に見つけて欲しくてたまらなかったのに。
私はそういう子供。
いっそ消えてしまえばいいのに。
誰にも見つけてもらえない子なんて。
探そうとも思われないどころか、存在を無視される子なんて。

いや……膝を抱えた私の頭に、もう一つ違う考えがよぎっていた。
恐ろしい考えだ。
そんなの信じたくない、それだけはいや。
私は最初から存在してない影のようなものだなんて、そんなの嘘だ。
ただ私は誰かが見つけてくれるのを待ってるだけ、この物陰で独り、息を殺して。
何十年も何百年も、果てしない時間が過ぎたけれど、私はここにいる。きっと永遠に待ち続ける。
遠くの足音に耳を澄ませる。その足音が近づくその時を、私はここで待っている。




10/2/2025, 2:52:17 AM

秋の訪れ

訪れた秋の気配に、妻は早々に夏の気配を消していった。
ソファのクッションカバーを白とくすんだ水色のリネン生地から、栗色や深みのある赤のフランネル生地に、ラグは波を思わせる幾何学から、紅葉のようなグラデーションのものに変えた。玄関のニッチや本棚の片隅には、秋をモチーフにした雑貨がいつの間にか飾られている。
妻に限らず女の人はそうだと思うけど、まだ気温が高くなるような日でも、すっかり秋のファッションだ。ジャケットを羽織り足元はサンダルやバックストラップのパンプスから足全体をしっかり覆うものになった。ネイルもリップも秋色ってやつに変わる。色づく前の木々よりも一足先に、華麗に秋を身にまとう。
確かに朝晩の空気はひんやりと心地良くなったし、夕暮れが早い。寝る時にはブランケットがもう一枚必要だし、エアコンだって、オフすることも多くなった。キッチンには昨日妻が買ってきた柿。
十月。暑い日もまだあるが、しかし確実に季節は進んでいる。
だが一つだけ、夏を残しているものがあった。我先にと秋仕様になった妻が片づけなかった夏。それは深く青い海を思わせるものだった。

夕食後、妻が柿を出してくれた。
切り分けられた柿は、群青色のガラスの平皿に丁寧に並べられていた。
一見ガラス皿と気づかないほど濃い群青色だ。皿のふちがうっすらと透明になっているのに気付けばガラスだとわかるくらいの濃い青。
澄み切っていながら深く濃い青は、夏の海を思わせる──これは妻のお気に入りの器だった。

「柿が出たらこのお皿で出そうと思ってさ」
妻が言った通りこの群青色は柿のオレンジ色を際立たせている。
「なんでも合うから便利なんだよね、このお皿」と満足げな妻。
昔、友人と沖縄旅行に行った時に一目見て気に入ってしまったのだそうだ。
明らかに夏の海を思わせるその皿は、妻が気に入ってるだけあって、よく使われていた。特に初物の果物を出す時はいつもこの皿だ。確かに群青色はフルーツの瑞々しさや、色鮮やかさを引き立てている。刺身とかも合いそうだ。
だけど僕は知ってるんだ。その、一緒に旅行に行った友人っていうのは元カレだっていうことを。
ここぞとばかりに登場する群青色の皿。お気に入りなのは、大事な思い出が詰まっているからだからだろう?
妻が、光の当たり具合ではきらりと光る器をそっと撫でる時、あの男と南国で過ごした夏の思い出に浸っているようで僕は複雑だった。きっと妻は、沖縄の美しい海辺を奴と手を繋いで歩いたに違いない。奴は繋いでいた手を妻の腰に回し妻は奴の胸板にそっと頬を寄せる。愛の囁きは波にかき消されて、いつしか二人のシルエットは一つになり……

「君は本当にこの皿を大事にしているんだな。まあ、そんな濃密な夏の思い出があれば無理もないか……」と思わず口から出た僕の呟きに、妻は怪訝な顔をした。それから妻は少しの間考えたのち、はっと思い当たったようだが、すぐに呆れた表情でため息をついた。
「濃い青色はいろんな料理に合うし便利だから使ってるだけだよ……ていうか、あなたのそういうところ本当にめんどくさい。勝手に色々妄想して、物語作っちゃってんでしょ。夏だったら確実にイラっときてるけど、まあいいか秋だし。食べなよ柿」
ほら、と妻は柿を一つ楊枝に刺すと僕の口の前へと差し出した。

夏だったらイラっとさせてしまうような僕の面倒くさい性格、嫉妬のあまり妄想を広げてしまう悪癖は、何故か許されたらしい。秋の訪れは妻の心をも平穏にしてくれるのだろうか。ありがとう秋。柿も美味い。
この時以来、柿は秋らしさを感じるような黒に近い深緑の渋いお皿に盛り付けられるようになった。群青色の皿をいつの間にか見かけなくなったことに気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだ。


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