イタリアの小説に同じタイトルの著書がある。結んでは解け、解けては結ぶ。家族関係の崩壊と再生可能性、時には切断される靴紐の特性を結びつけている。日本語訳も発行されている。
しかし、翻訳家は著者の意向を損ねないように歴史的背景や生き様を調べるが、それは本当に正しいことなのだろうか?どのように翻訳しようが個人的解釈を無くすことはできない。そもそも翻訳行為自体が言語への冒涜であると言えるかもしれない。それならいっそ自由奔放、自己中心的な解釈があってもよい。
靴紐の結び方も一つではないのだから。
題『靴紐』
何事も後回しにする人は結局その場から動かない。
「忙しい、今は疲れてる、別に邪魔じゃない」
色んな理由をつけるけど、明日になったら忘れてる。
「とりあえず外に出たけど暑すぎて引き返したよ」
「今は忙しいから明日の午後までには連絡するね」
とりあえず行動する。期日を指定する。
それって凄く大切なこと。
答えを出さなくていいってことは、答えを先延ばしにしても問題ない相手だって無意識に見下している。
題『答えは、まだ』
日本や世界を舞台に物件駅を買い漁る「桃太郎電鉄」というゲームがある。かつては出雲には蕎麦、喜多方にはラーメン、そして宇都宮には餃子しかなかった。それが何故か印象的で、日本の地理はこのゲームで学んだ。シリーズ最新作では幅広い物件を扱うようになり、豊かになっているはずなのに何を売っていたのか記憶に残らなくなった。心を揺さぶるような旅路は目的地へと向かうだけの短期旅行でしかなくなった。
題『センチメンタル・ジャーニー』
(深夜03:00〜04:00)
この時間帯だけに接続できるフリーWi-fi があった。
「おはよう、元気にしてる?」
「ああ、なんとかね。ようやく仕事に一区切りがついたところで、これから寝るところ」
飄々とした態度で根無草のように捉えどころのない30代後半の男性の声であり、軽い疲労感が滲み出ていた。Bluetooth の向こう側の君がすぐ隣にいるような錯覚を覚えながら月を見上げていた。
「こっちは満月だよ。しかもブラッドムーン。君に見せたかったな」
小さい頃は夜中にこっそり抜け出して公園のブランコで満点の星空や群青色の空に浮かぶ月を指さしては何に見えるかと語り合っていた。
「そうなんだ!見たかったなー、ブラッドムーン。写真くらいなら送れるかもしれないから申請してくれない?」
わかった、手続きしてみるね。
何気ない会話。けれど決して交わることはない。
西暦2351年、月流し法が可決された。かつては島流しや電気ショックが一般的だったが、現在は機械による自動化が進み人件費が軒並み高騰していたため、コスト削減の一環として広く普及していた。
かつて君と見上げた月は脱獄不可能な刑務所となった
題『君と見上げる月…🌙』
空白には空白を置いているんだ。空白期間に何をしていたなんて意味のない質問をしないでくれよ。ドーナツの穴に疑問を持つのか?熟成中のチーズを空白期間と見做すのか?俺の国では、わざわざ働かなくても生きていけるのに何故働くんだって聞かれるけどな。
題『空白』