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1/16/2025, 5:13:38 PM

『透明な涙』


「いい子にしてるのよ」
 ママはそう言って、真っ赤な口紅を塗って家を出ていった。

 ママが真っ赤な口紅を塗る日は嫌いだ。いつもと違って機嫌が良くて、いい匂いがする。そして鼻歌を歌いながら、普段は触れてもくれない私の頭を撫でる。
 すごく嬉しくて、ママに抱きつきたい気持ちになるんだけど、それは許してくれない。
 そしてママは綺麗な服を着て出かけていって、何日も帰ってこなくなる。

 とても心地のいい温かいママの手が、「さよなら」と言っているように思えた。

「かえってくるよね?」
 そう聞きたいけど聞けなかった。

 冷蔵庫を開けてみる。そこには昨日の夜に食べ残したパスタの残りと、サラダの残りがあったから、私は少しだけ食べた。ママはいつ帰ってくるのか分からない。だから少しずつ食べるようにしている。

 もう何日経ったかな?
 今日もママは帰ってこない。冷蔵庫の中にもう瓶に入った赤くて辛いのと、食べ物じゃない何か分からない瓶しかない。この瓶の中身はママがお風呂上がりに顔に塗っているやつだ。
 パスタもサラダももう無い。味噌ももう全部食べた。マヨネーズももう無い。玉ねぎは苦くて辛かったけど、お腹が空いて耐えられなかったから食べた。茶色の薄い皮は紙みたいで食べられないと思ったから剥いて食べた。
 踏み台に乗って水道から水を出す。コップに入れて飲んで、お腹が空いたのを我慢した。

 ──ママ、早く帰ってきて。

 ママが最後に言った「いいの子にしてるのよ」って言葉は別れの挨拶だったみたい。

 何日かして、力が出なくて踏み台にも上がれなくなった頃、知らない大人が来て、子どもが集まっているところに連れていかれた。そこは暖かくて、明るくて、賑やかだった。
 ご飯ももらえたし、お風呂にも入れてもらった。新しい服も着せてくれて、知らない大人が頭を撫でてくれた。

 でも私は幸せじゃなかった。だってママがいないんだもん。大人は何人もいたけど、みんな優しくて赤い口紅を塗っていない。
 私は、赤い口紅を塗った日だけ優しくて、頭を撫でてくれるママが好き。他の人じゃなくママがいい。
 だって私のママはすごく綺麗で、いい匂いがして、私の前で泣くんだ。透明の涙を流しながら、私に縋り付くんだ。だから私がママを守らなきゃ。

 何日も寝て、毎日ママが迎えに来てくれるのを待った。何日経ったか分からないけど、ある日ちゃんとママは迎えに来てくれた。真っ白でふわふわなコートを着て、真っ赤な口紅を塗っている。またどこかに出かけるの?
 それでもいい。ママは私が守ってあげなきゃいけないんだ。

 ママと一緒に家に帰ると、家には知らない男がいた。でもしばらくすると、男は家から出ていって、帰ってこなくなった。

「なんで? ずっと一緒だって言ったのに」
 ママはまた私に縋って泣いている。透明の涙を流して。

「ママ、わたしがまもってあげる」
 ほら、ママには私が必要でしょ?
 きっとママはまた、しばらくすると真っ赤な口紅を塗って出かけて、何日も帰ってこなくなるんだ。でもこうして私のところに何度でも戻ってくる。

 大好きだよママ。


(完)



12/10/2024, 6:09:24 AM

『手を繋いで』


「ママ、僕を見て」
 懐かしい夢を見た。ママの顔、今となっては思い出せない。写真一枚残ってない。ママがいなくなった時、パパがママの写真を全部ビリビリに破いて捨てたからだ。
 当時の僕は何をしているのか分からなかったんだけど、今なら分かる。裏切られた憤りからの行動だったんだろう。

「マサキ、これからはパパと二人で暮らすんだ」
「うん」
 本当はなんでなのか、ママはどこに行ったのか聞きたかったけど、聞いてはいけない気がして聞けなかった。

 パパはちゃんと僕を見て、僕の手をしっかりと握った。パパは僕のこと見てくれる。だったらパパがいいと思った。

 パパはいつも疲れてた。僕と手を繋いで保育園まで送って、仕事に行って、外が暗くなってから迎えにくる。
 ママがいた頃はパパと手なんて繋いだ記憶はなかった。ママとも繋いだ記憶はないけど……。パパの手は温かくて大きい。

 初めパパは料理だって下手だった。
「美味しくないよな? ごめんな」
 パパは知らない。ママが出してくれるごはんは美味しかったけど、あれはママが作ったわけじゃない。お店で買ったやつだ。

 パパは下手な料理をいつもちゃんと作ってくれたから、キッチンはいつもグチャグチャだった。パパが疲れてソファで寝てる時、僕は踏み台を持って行って、お皿を洗おうとしたんだ。僕も役に立ちたかった。だけどお皿が落ちて割れてしまった。

 ガシャーン

 大きな音がして、パパは慌てて起きて、僕がお皿を割ったのだと分かるとため息をついた。
「ごめんなさい」
 怒られると思ったのに、パパは怒らなかった。それからうちの食器は割れない食器になったんだ。僕もパパの役に立ちたくて、お手伝いをするようになった。

「マサキは偉いな」
「パパのほうがもっとえらいよ」
 そう言ったらパパは笑って抱っこしてくれた。

 そんな男二人の生活がずっと続いた。僕はもう無力な子どもではない。結婚もして、子どももいる。親父は先日仕事を辞めた。定年退職ってやつだ。
 それでも元気だから、いつも息子と手を繋いで散歩に行く。

「親父、ありがとう」
「ん? 何のことだ?」
「何でもない」

 あの時、僕を見てくれて、大きな手で僕の手を包んでくれたから、僕は迷子にならずに済んだ。
 今となっては親父の手はそれほど大きいとは思えない。だけど、あの頃の僕にとって、何者からも守ってくれるような大きな手はとても頼もしくて格好いいと思った。
 だからもし親父が迷子になることがあれば、僕がその手を握って親父を守ろうと思う。



(完)

12/7/2024, 12:09:09 PM

『部屋の片隅で』


 私は弟の耳を両手で塞いで、二人で頭から布団をかぶって震えていた。弟の手も震えて私の背中に回されている。
 私だって耳を塞ぎたい。父親が母を罵倒する声なんて聞きたくない。だけど私は目の前の小さな弟を守らなければならない。

 ガターン

 大きな音が鳴った。たぶんまた父親が母に手をあげたんだろう。そんな音、聞きたくはない。
 私の手もまだそんなに大きくはない。母の手より小さい私の手では、母を守ることもできない。弟の耳を必死に塞いでいても、完全にこの音を防ぐことなんてできない。
 だけど私は弟の耳を塞いだこの手を放すことはできないんだ。


「ユイちゃん?」
「あ、ごめん何?」
「いや、なんかすごい魘されてたからさ」
 目を開けたところにいるのは幼い弟ではない。私はあの頃のような小さく無力な存在ではないし、あんな男の庇護下になくても生きていける。

「うん。ちょっと嫌なこと思い出しただけ」
「大丈夫なの?」
「何が?」

 確かに苦しい過去だけど、誰にも踏み込んでほしくはなかった。可哀想だと同情されるのも嫌だったし、大変だったねなんて何様なのか。
 だから私は今日も作った笑顔で「過去のことなんで気にしてません」なんて壁を作る。
 ただの客がこれ以上入ってくるな。


 あの後、母はいなくなった。私たちを置いて一人だけ逃げ出したのか、それとも死んだのか、殺されたのか、まだ幼かった私と弟には、いなくなったことだけしか教えてもらえなかった。
 そのまま私と弟は母の妹の家でしばらく過ごし、私が高校を出ると二人で家を借りた。叔母の家族に虐められたとかそんなことはない。たぶんいい人たちだった。

 だけど私には家族だと思えなかった。弟は黙って私に従った。五歳下の弟は可愛かった。容姿とかではなく、唯一私の家族で私が守るべき存在として可愛くて仕方がなかった。私が必ず弟を守る。そう決めていた。

 高卒で働けるところはあまり給料がよくなくて、探せばもっといい仕事があったのかもしれないけど、私は探し方を知らなかった。
 何とかしなければと夜の仕事を始めた。初めはカウンターの中でお酒を作ってお客さんと話をするだけの店だった。
 でも弟との時間がなくなって、昼間働けるところを探した。金銭感覚がおかしくなって、昼間の事務作業がとても時間の無駄に思えた私は、思い切って仕事を辞めた。

 そして始めたのが昼間の風俗店だ。これなら昼間の仕事と同じような時間で働ける。弟を一人にしなくて済む。それに生活費にも余裕が出て、弟の進学の費用だって貯めることができた。
 金銭感覚が狂ったといっても、ブランド品や高級なものを買ったりはしなかった。そんな物より、私にとっては家族が大事。

「姉ちゃん、俺、大学は奨学金で行くから」
「なんで? お金のことは気にすることないよ」
「それってさ、体売った金だろ?」
 バレていないと思っていたけど、弟にはバレていた。そして弟は大学進学と同時に私と暮らす部屋を出て行った。

 私はあの震える小さな手を守りたかっただけなのに。あの時は、私のこの手で守れる気がしたんだ。
 一人になった部屋で、私は膝を抱えた。

「姉ちゃん、今までありがとう」
 弟が残した最後の言葉だけは決して忘れない。私のやったことは無駄じゃなかった。


 私の思い出に入ってくるな。思い出の中の私は、ちゃんと弟を守れていた。唯一の家族を守れていた。かけがえのない思い出。
 それは私の誇り。だから誰にも何も言ってほしくないし、触れてほしくない。一番輝いていた頃の私なんだ。

 今日も私は体を差し出して金を稼ぐ。過去の栄光じゃない。今でも私は栄光の下にいる。この体が私の家族を守った。だから私は誇りを持ってこの体で稼ぎ続けるんだ。


(完)

12/4/2024, 5:12:14 AM

『さよならは言わないで』


 知ってたよ。俺とお前は住む世界が違う。
 ずっと気付かないフリをしていた。出会った時からずっとだ。とうとうきたんだな、離れ離れになる瞬間が。

 次の約束は無い。これが最後だって分かってる。だけど、もしかしたらって希望は捨てたくないんだ。希望がなくなってしまったら、俺は生きる意味さえ失う。

「ごめんね」
「言うな。こうなることは分かってた。お前のせいじゃない」
 これが最後と重ねた唇は、いつも通り柔らかくて、少し震えていた。

今すぐ奪い去りたい。そんな気持ちはあっても実行できるかは別の話だ。

「俺こそごめん」
「あっくんのせいじゃないよ」
「じゃあ……」
「さよならは言わないで。またいつかがあるって信じたいから」
「分かった」
 彼女が俺と同じ気持ちだと知って、抑えていたものが溢れそうになった。

 俺たちは最後に握手をすると、互いに背を向けて新しい道を、二人違う道を歩き始めた。



(完)

12/3/2024, 1:12:14 AM

『光と闇の狭間で』


 あぁ、またやってしまった……

 いけないと分かっている。また帰ったらルームメイトの夏美に説教されるんだろう。
 私の隣で眠るのは見知らぬ男だ。白い肌にカールした茶色の髪、彫りの深い目元に高い鼻。髭も生えているし、分厚い胸板には薄っすら胸毛が生えている。ハーフか欧米系の人のようだ。彼の下半身は布団に隠れて見えないが上半身は裸。そして私は布団の感触を考えても全裸だ。

「んん〜」
 男が起きたようだ。
 全く記憶にないけど、たぶん私はこの男とやったんだろう。一応聞いてみる? いや、その必要はないか。

「おはよう」
「Grazie per una serata meravigliosa」
「……」
 グラッチェ? イタリア語だろうか? ってことはこの色素の薄いイケメンはイタリア人? 言葉も通じない人と一夜を共にしたのは初めてだった。

「あ、ゴメンゴメン、ユミはニホンジンだったね。Mmm……なんて言うんだっけ? あ、サイコウ! ユミ、昨夜はサイコウだったよ!」
 名前も知らないイタリア人と思われる男は私を抱きしめて、嬉しそうに頬や口にキスをしてきた。さすが情熱の国イタリア。
 
 ──最高か……

 見知らぬ人に言われても、少しも私の感情は動かない。それにしてもちゃんと日本語を話せる人でよかった。されるがままキスをして、胸毛って意外と柔らかいんだな、なんて考えていた。

 こんなことは初めてではない。私はお酒を飲むと楽しくなって止められなくなってしまう。いつも一杯だけと、少し体が温かくなる程度でやめておこうと思うんだけど、気づくとこうして知らない男の隣で裸で寝ている。
 ルームメイトの夏美曰く、私は酒が進むと男の人に甘えたくなるらしい。自分ではそんなつもりはないし、その頃になると記憶は飛んでいるから自覚はない。

 ルームメイトの夏美と一緒に飲むときはいい。夏美がストッパーになってくれるし、酩酊しても夏美が連れ帰ってくれるから。しかし夏美がいないときはダメだ。こうして男の隣で起きて、朝帰りすると夏美に短くない説教をされることになる。

「ユミ、キレイだ。アナタが欲しい」
「え? あ……」
 この名前も知らない男に、朝から抱かれることになった。昨夜のことは記憶にないけど、今はシラフだ。シラフの状態で見知らぬ男に抱かれるなど──と思ったけど、彼が情熱的にキレイだとか、カワイイとか、愛シテルとか言ってくれるから、満更でもない気分になっていった。

 私だって愛されたい。誰でもいいわけじゃないけど、私ってちょろいのかな? こんな言葉は彼にとって挨拶みたいなものかもしれない。
 それでも嬉しかった。

 この男に落ちたら、私の未来は光り輝くのか、それとも闇が広がっているのか。私はこの男のことを何も知らない。名前すら知らない。

「ユミ、昨日みたいに『エミリオ愛シテル』って言って」
 この人、エミリオって名前なんだ? 綺麗な名前。それにしても私は会ったばかりの人に愛してるなんて言ったのか……

「エミリオ愛してる」
「Contento、嬉しい。カワイイね、ユミ、愛シテル」
 名前しか知らないけど、優しい温もりの中で、少しだけ希望が見えた気がした。

 結局私は夏美に怒られなかった。エミリオが家まで送ってくれて、夏美に挨拶までしてくれたからだ。ただしエミリオがいなくなると問いただされた。

「ちょっと優美、エミリオ様といつの間に仲良くなったのよ? しかも結婚するとかどうなってんの?」
 結婚は私も知らない。さっき夏美の前で急に「結婚するゼンテイのオツキアイ」なんて彼が言ったからだ。それよりエミリオ様?

「夏美、エミリオのこと知ってるの?」
「はぁ? 知ってるでしょ」
 夏美に聞いてみると、エミリオは大学のイタリア語の教授の助手だった。まさか大学関係者だったなんて……

「でも大丈夫なの? エミリオ様、来年イタリアに帰るとか言ってた気がするんだけど」
 帰る? そうか、彼はイタリア人で私は日本人。ずっと日本にいるとは限らないんだ。まさかついてこいとか言われるんだろうか?

 夏美はイタリア語を取っているけど、私はイタリア語なんて全然分からない。
 三月には卒業するし、一緒に来いと言われたら行けなくはないけど、海外でなんて暮らしていける気がしない。

 彼の温もりの中に確かに希望の光が見えた気がしたけど、今は不安の真っ暗な闇が私を覆い尽くそうとしている。
 愛してるなんて言ったのは失敗だったかもしれない。付き合うって話もないままに結婚なんて話が出たけど、私に国際結婚なんてできるの?

 光と闇が混在したエミリオという男。いや、彼が光や闇ではなく、私の気持ちが光と闇なんだ。

「夏美、イタリア語、教えてくれない?」
 私は闇を払拭すべく、光の中へ一歩足を踏み出した。



(完)


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