sairo

Open App
9/9/2025, 6:08:46 AM

雨が降ります。雨が降る。
外は土砂降り。傘はなし。
玄関の片隅には、汚れた靴が一足。
靴紐は切れて、これでは外へ行けません。

「千代紙で遊ぼうよ」

わたしによく似た君は、雨でもにこにこ笑っています。
外ばかり見るわたしの手を引いて、今日もきらきら煌めく魔法を見せてくれるのです。

小さな手が、青い千代紙を折ります。
ぱたん、ぱたんとたたんで、それは可愛らしい鳥になりました。
赤い千代紙を折ります。
ぱたん、ころん、とたたんで転がして、それは小さなお船になりました。
花を、星を、そしてやっこさんを折りました。
花を敷き、星を撒きます。やっこさんをお船に乗せて、星の川を渡っていきます。

「楽しいね」

君は笑います。
わたしは小さく頷いて、けれどもやはり、外が気になりました。

ざあざあ、ざあざあ。
外では雨が降っています。
硝子を叩き、大地を煙らせ、激しい雨が降り続いています。
時折稲光が空を走り、遅れてどぉん、と低い雷の音が響きます。

「次はお手玉をしようか」

お船から降ろしたやっこさんを寝かせながら、君はお手玉を取り出しました。

「ひとりでさびし。ふたりでまいりましょう」

ひとつ、ふたつ、みっつ。
桃色、黄色、水色。
口遊む歌と共に、お手玉が宙を舞います。
綺麗な放物線を描き、吸い込まれるようにして手に収まるお手玉。
真似してお手玉を投げてみますが、すぐに落ちて続けられません。

「――ここのつこめや。とおまでまねく」

君の放るお手玉は、最後まで手から落ちず。
歌の終わりと共に、思わず手を叩いていました。

「ふたつなら簡単だよ。もう一度一緒にやってみよう」

誘われて、落ちたお手玉をふたつ、手に取りました。

「ひとりでさびし。ふたりでまいりましょう」

君の歌に合わせて、お手玉を放ります。
お手玉を追って、体があちらこちらに動きます。
しかし、今度は落とさず続いていきます。

「いもとのすきな。むらさきすみれ」

あ、と思った時にはすでに遅く。
お手玉はわたしの手から溢れ落ち、ぽとりと畳に落ちました。

「惜しかったね」

未練がましく落ちたお手玉を見ていれば、君は優しく背を撫でてくれました。

「今度は何をして遊ぼうか?」

小首を傾げる君は、柔らかな笑顔を浮かべていました。



おはじき、けん玉、お絵かき。
いろいろな遊びをしました。たくさんたくさん君と遊びました。

それでも雨は止みません。
ざあざあ、ざあざあ。
屋根を打つ雨の音が聞こえます。閉じた障子の向こうが暗がりに沈んでいます。
ちらりと障子を一瞥して、白い千代紙を一枚取りました。
ぱたん、四角が三角になりました。
ぱたん、ぱたん。
三角が四角に、四角が菱形に、次々と形を変えていきます。
そして出来上がったのは白い鶴。
不格好で草臥れたわたしの鶴を、君の折った黒い鶴の隣に並べます。
こてり。
白い鶴は黒い鶴に凭れ寄りかかりますが、黒い鶴はびくともしません。
それを見て、ふと悪戯心が込み上げました。

「――わっ!?」

こてり。
鶴を真似して、君の肩に凭れます。
小さく驚きの声を上げた君は、それでも倒れる様子はありません。

「驚いたなぁ。もう」

そう言いながら、君は頭を撫でてくれます。
優しく、いい子と言いながら。
ふふ、と小さく笑みが溢れました。

「眠くなっちゃったの?」

君に問われ、首を傾げます。
眠いような、まだ起きていたいような。
目の前には、ふたりで折ったいくつもの千代紙。鮮やかに畳を覆い尽くしています。
それでもまだ足りない。そんな気がして、首を振って体を起こしました。


外はまだ、雨が降っています。
しとしと、しとしと。
絹糸の如く細かな雨が、静かに降り続いています。
傘はなく、靴紐は切れたまま。
外に出ることはできません。

「楽しいね」

それでも君が笑うので。
魔法のように、たくさんの遊びを教えてくれるので。

「うん。とっても楽しい」

わたしは笑顔で君に答えました。
優しい君。わたしの影。
ふたりきり。寂しくはない。

しとしと、さらさら。
外では雨が降っている。
重ね続けた消えない悲しみが、今日も明日も降り続く。

雨が降ります。雨が降る。



20250907 『雨と君』

9/8/2025, 3:37:44 AM

目の前に広がる光景に、少年は自身の軽率さを悔やんだ。

夏休み明けから、学校ではある噂が密かに広がっている。

――誰もいない教室から、女のすすり泣く声が聞こえる。

ありきたりな怪談話だが、夏休みに部活のあった生徒を中心に信じている生徒は多い。夏休み中に、女のすすり泣く声を聞いた生徒が何人もいたからだ。
部活に入っていない少年は、噂を信じてはいなかった。
何かの音を聞き間違えたのだろう。誰かがこっそり見ていたホラー動画を、偶然聞いてしまったのだろう。
そう思い、数分前に忘れ物に気づいた時には、迷いなく取りに戻ることを選択した。
その選択を、少年は今とても後悔していた。


教室の扉を開けたままの格好で立ち尽す。
扉を開けたその先は、見慣れた教室ではなかった。

鬱蒼と生い茂る森の中。
風ひとつなく静まりかえっていることが、不可解さと相俟って怖ろしさを漂わせている。
その中央に、椅子が一脚置かれていた。
教室にあった椅子だろうか。こちらを向いて置かれている椅子は森の中で馴染まず、酷く浮いていた。

しばらくして、幾分か落ち着いた少年は忘れ物を思い出した。
扉にかけたままの手を離す。ごくりと唾を飲み込んで、少年は一歩、教室の中へと足を踏み入れる。
椅子があるということは、机もあるのかもしれない。僅かな期待を抱いて、少年は辺りを見回した。
忘れ物を見つけて早く帰ろう。その思いで、椅子に視線を向けないようにしながら机を探す。だが見える限りには、椅子以外の教室の名残は見つけられなかった。
溜息を吐く。
草を掻き分けようとして、腕を伸ばした時だった。

「――誰が駒鳥殺したか」

幼い子供の残酷さを孕んだ、高い声が響いた。
弾かれたように椅子へと視線を向ける。
いつの間にか黒い人影が座っていた。移動していた少年に合わせて椅子の向きが変えられていて、影は少年を見据えてこちらを見ていた。
ひっと、喉の奥に張り付いたかのような悲鳴が漏れる。影から視線を逸らせずに、立ち尽くす。
沈黙。目を見開いたまま硬直する少年に、影は僅かに首を傾げた。

「それはわたし 雀が言った」

影が歌うように言葉を紡ぐ。
今度は少年が首を傾げた。影の言葉の意味が分からなかったからだ。
何かの歌だろうか。
駒鳥を殺したのは誰かを聞いて、そしてそれは自分だと雀が答える。
意味が分からない。困惑して眉を寄せたまま何も言えずにいれば、影は再び首を傾げた。
ゆっくりと立ち上がる。少年を見据えたまま、一歩近づいた。

「弓矢で殺した 彼の駒鳥を」

影が言葉を紡げば、静まりかえった森のどこかで雀の鳴く声がした。

「うわあぁぁぁっ!」

もう一歩、影が近づいた瞬間。弾かれたように少年は叫びを上げて教室を飛び出した。
泣きながら必死で外へと向かう。頭の中から声が離れない。追いかけてきている錯覚に、益々涙が溢れてくる。

昇降口に部活終わりだろうクラスメイトの姿を認めて、駆け寄った。

「どうしたんだよ。そんなに慌てて。しかも泣いて」

困惑を目に浮かべたクラスメイトの肩に、少年は手を置く。
荒い息をつきながら、途切れ途切れに見たものを告げた。

「いた……噂、本当だった。女じゃ、ない……森、だった……」


――誰もいない教室は、異界に続いている。

数日後、そんな噂が学校内で広まっていた。





楽しげに新たな噂を話し合うクラスメイトたちに、密やかに息を吐いた。
学校中に広まった噂にはどんどんと尾ひれがついていき、最早何が正しいのか分からない程だ。

――教室にいる人物に声をかけられ答えてしまうと、二度と戻れなくなってしまう。
――異界と繋がった教室のものに触ると呪われる。
――異界の人物と目を合わせてしまえば、気が狂ってしまう。

そろそろ教室に入っただけで、異界に閉じ込められてしまうという噂まで作られそうだ。
痛み出したこめかみを抑えながら、静かに立ち上がる。
声をかけてきたクラスメイトに、体調が悪いとだけ声をかけて、教室を抜け出した。



賑やかな教室から離れ、特別教室のある棟へと向かう。帰りのホームルームの時間前だったからか、辺りはしんと静まりかえっていた。
ある教室の前で立ち止まる。プレートには図書室の文字。
扉に手をかけ、迷いなく開いた。

そこは見慣れた図書室ではなかった。
どこまでも広がる青い空。時が止まったかのように縫い止められ動かない、白い雲と太陽。
明るい陽射しに照らされたそこは、小さな墓地だった。
中央にぽつんと一脚、椅子が置かれている。何も言わずに見ていれば、椅子からじわりと影が滲み出し、小さな人影を形作っていく。
小さく息を吐きながら、後ろ手で扉を閉める。一歩足を踏み出せば、期待を抱いた子供の高い声が響いた。

「ソロモン・グランディ 月曜日に生まれ」

影は行儀よく椅子に座り、こちらの返しを待っている。仕方がないと、歩み寄りながら続きの言葉を口にした。

「火曜日に洗礼を受けた」

影の肩が跳ねた。体を左右に揺すりながら、さらに続く言葉を影は口にする。

「水曜日に結婚し」
「木曜日に病に臥した」
「金曜日に危篤となり」
「土曜日に死んだ」

言葉を続ける度に、影は椅子の上で楽しそうに体を揺する。声は高く上擦って、楽しくて堪らないと喜びに満ちている。

「日曜日には土の中」

影の前に立つ。最後の言葉が紡がれるのを待つ影を、何も言わずにしばらく見つめた。
機嫌良く揺れこちらを見上げていた影が、段々に静かになり俯き出す。

「――ソロモン・グランディ」

か細く続く言葉。
泣くのを堪えるかのようなその響きに、流石に意地悪が過ぎたかと少しばかり反省した。
態とらしく音を出して息を吸い込む。はっとして顔を上げた影に笑って、口を開いた。

「「彼の物語はこれでおしまい」」

声を合わせ、最後の一説を紡ぐ。
きゃあ、と声を上げ、両手を叩いて喜ぶ影に、呆れながらも笑った。

影が落ち着いた頃を見計らい、手を差し出す。何も言わずとも理解したのだろう影は、一冊の本を取り出した。
それを手渡し、霞のように影は周囲に解けていく。何度目かの溜息を吐きながら、裏表紙を捲った。
そこには、昨年度廃校になった隣町の学校の印が押されている。

「寂しがり共め」

誰もいなくなり退屈になった学校の備品たちが、人恋しさで迷い込んだのだろう。
在りし日の学校を思い出して苦笑する。
掛け合いを楽しむ図書室の本。寝落ちした生徒をさりげなく揺すり起こす、机や椅子。
美術室に行けば、肖像画や彫刻が気さくに声をかけてくれるし、音楽室のピアノはたまに音痴になった。
とても賑やかな学校だった。廃校になり、この学校に転校して、あまりの静かさに驚いたほどだ。
本を閉じ表紙を撫でれば、切なさで胸が少しだけ痛んだ。
かたり、と椅子が揺れる。控えめな主張に苦笑して、椅子の背もたれを撫でる。

「分かったよ。週末会いに行くから」

約束すると告げれば、あちらこちらから歓声が上がった。やはり自分には、小さくともあの学校の方が向いている。
約束を口にして、今から週末を楽しみにし出した自分を感じながら、そう思った。



20250906 『誰もいない教室』

9/7/2025, 9:18:59 AM

「いかないでぇ!」

泣きながら、大きな背にしがみつく。
出発の朝。この瞬間が何よりも嫌いだ。

「ちゃんと帰ってくるよ」

眉を下げて、兄は困ったように微笑う。

「ほら、お兄ちゃんを困らせないの」

溜息を吐きながら、母が無理矢理に引き離す。温もりがなくなって、益々寂しさが込み上げた。
脇目も振らずに泣きじゃくる。上手く呼吸ができずにくらくらする頭で、それでも兄に向けて必死に手を伸ばした。

「困ったね」

優しい声が囁いた。伸ばす手を包まれ、しゃくり上げながら兄を見つめる。
行かないでくれるのだろうか。期待を込めて、兄の言葉の続きを待った。

「一週間したら帰ってくるよ。約束する。ちゃんと帰ってきて、誕生日をお祝いするから、良い子で待てるよね?」

涙を拭われ、視線を合わせて兄は言う。期待とは真逆の言葉。でも、差し出す小指に仕方なく指を絡めた。

「指切りげんまん――」

絡めた小指を軽く揺すられて、ふてくされながらも約束を交わす。
兄は約束を絶対に破らない。今までもそうだった。だから今度の約束も守られると信じて、指を切る。

「うそついたら、おにいちゃんと口をきかないからね!」
「それは嫌だなぁ……だから絶対に帰るよ」

指切りをした手が頭を撫でる。
一週間。七日。
遠い先を思い、また涙が溢れてくる。涙を拭おうとする手から逃げるように、母の背中に隠れて兄を見送った。

「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「――いってらっしゃい」

遠ざかる兄の背中が見えなくなるまで、見えなくなってからもしばらく玄関で立ち尽くす。
兄はちゃんと帰ってくる。帰って来て、誕生日を祝ってくれる。
そう信じて、兄の無事の帰りを神に祈った。


けれど――。
一週間が過ぎても、一ヶ月が過ぎても、兄は帰ってはこなかった。

沖で嵐があったらしい。兄の乗った船も、戻ることはなかった。
その知らせを正しく理解できたのは、何年も経ってからだった。





昨日から降り続く雨は、風を引き連れ勢いを増している。
きぃ、と音が聞こえて、溜息を吐いた。
重怠い体で、勝手口へと向かう。

「いい加減、直せばいいのに」

愚痴を溢しながら、風に揺れ雨を室内に招き入れている勝手口の扉を固く閉めた。古い扉は随分と前から鍵が壊れ、閉め方が甘いとこうしてすぐに開いてしまう。その度に直したいと両親は言うものの、直される様子はない。
古い家だ。直すべき所は多くあり、ひとつひとつ直してなどいられないのだろう。

「雨なんか嫌いだ」

小さく呟いた。
正確には、雨も風も嫌いだ。晴れ渡る空も、朝も海も、何もかもが嫌いだった。
溜息を吐きながら、部屋に戻るため歩き出す。
台所を出た瞬間、不意に何か音が聞こえた気がした。

「――何?」

辺りを見渡しても、音の出所は分からない。耳を澄ませても、打ち付ける雨風に紛れてよく聞こえない。
だが微かに何か聞こえる。無機質な、電子音。電話の切れた音にも似ている、そんな低めの音。

「何なの。まったく……」

頭を振って、足早に部屋に戻る。
電話も嫌いだ。耳を澄ませてまで聞いていたくない。
部屋の中。ベッドに入り、シーツを頭まで被る。
耳を塞いで、目を閉じた。

世界は嫌いなものばかりだ。
眉間の皺は刻まれたまま、消えることはない。

段々と落ちていく意識の外側で、微かに音が聞こえ続けていた。



次の日になっても、音は消えることはなかった。
正確には、昨日よりも音は強く聞こえている。ツーという音と、トンという音。どこか聞き覚えのあるそれは、思い出せそうで思い出せない。

「――あぁ、もう!嫌になる」

頭を振るが音は消えない。思い出せない歯がゆさに、眉間の皺が深くなる。
ざぁっと外で音がした。弱まっていた雨が、また強さを取り戻したようだ。
窓に近づき、打ち付ける大粒の滴を一瞥してカーテンを閉める。
体が重い。気圧の影響か、痛み始めたこめかみを押さえながらベッドに倒れ込んだ。
音が聞こえる。舌打ちして耳を塞ぐも、音は止まない。
頭の中で響いているのだ。ふとそんなことが思い浮かぶ。
やはり、世界は嫌いなもので溢れかえっている。
苛立つ気持ちのまま、その日はよく眠れなかった。



音が響く。
はっきりと聞こえるようになり、あることに気づいた。
音はある一定の規則で繰り返されている。

「――あ」

そこでようやく思い出した。
まだ兄がいた幼い頃、勉強の傍らに教えてもらったもの。

「モールス信号だ」

呟いて、ベッドから体を起こす。ふらつきながらも、奥の部屋へと向かった。

そこは、兄の部屋だ。兄が出て行ったままの状態で残された部屋は寒々としていて、ここ数年足を踏み入れていなかった。
定期的に母が掃除する以外に、誰も足を踏み入れない場所。何年も経つのに、潮の匂いがふわりと漂う。

「確か、本棚に……」

兄の気配はまだ色濃く残っている。けれども兄はいない。そのことから思考を逸らすように、本棚へと向かう。綺麗に整頓されていたため、目的の本はすぐに見つかった。
本を取り、足早に部屋を出る。自室に戻り、聞こえる音を当てはめていく。

「・-・・、-・---、-・--・……か、え、る?」

首を傾げた。
「かえる」と繰り返す音。帰るなのか、それとも返るなのかは分からない。
何故頭の中に響いているのかも分からなかった。
眉間に皺が寄る。本を片付ける気にもならず、ベッドへと倒れ込んだ。
目を閉じる。聞こえるのは、頭の中の信号と、雨風の音。

そして、戸を叩く音。

「――誰?こんな時間に」

諦めるだろうと思い待っていたが、音が止む気配はない。
溜息を吐いて、体を起こす。軋む体と痛む頭に顔を顰めながら、ゆっくりと玄関へと歩いていく。

「誰ですか」

何故呼び鈴を鳴らさないのか。そう思ったが、数ヶ月前から音が鳴らなくなったことを思い出す。
声をかけても、戸を叩く音は止まない。雨風の音で聞こえていないのだろうか。
舌打ちをして、玄関戸に近づく。鍵を開けようとして、ふと違和感に気づいた。

ドン、ザー、ドン、ドン。

聞き覚えのあるリズム。頭の中のそれと重なり、音が大きく聞こえ出す。
戸を叩いているのではない。信号を打っているのだ。

「――誰、ですか」

ゆっくりと後退りながら、もう一度声をかける。
音は止まない。声は返らない。

頭が痛い。さらに重くなる体を引き摺るように、玄関から離れていく。
戸の鍵は閉まったままだ。声をかけてしまったが、反応はなかった。このまま部屋に戻って、朝が来るまで待っていれば、いずれ止むのかもしれない。
そう思い、もう一歩後退った時だった。

背中に何かが当たる。冷たく、濡れた自分よりも大きな何か。
振り返るよりも先に、背後から伸びた腕に抱き竦められた。

「――ただいま」

ひび割れた声。でも聞き間違えるはずなどない。
体を抱く腕に視線を落とす。濡れた服の裾からぽたぽたと滴が落ちている。
その服に見覚えがあった。思わず呻きにも似た声が上がる。

「お……にい、ちゃん……」

掠れた声で呼べば、返事の代わりに抱き竦める腕に力が込められた。

いつの間にか、戸や頭の中で響く信号は聞こえなくなっている。ならば、あの信号を打ったのは、兄なのだろう。
どうして、と静かになった戸を見ながら考える。戸に鍵はかかっている。目の前で開いてもいない。
風の音に紛れて、小さくきぃ、という音が聞こえた。鍵の壊れた、勝手口の扉。それが答えだった。
強い潮の匂いに目眩がする。今更何故、兄が帰って来たのか。それを尋ねたくても、もう何も言葉が出てこない。

「――とう」

不意に兄が何かを呟いた。雨風に掻き消されるほど、微かな声音。耳を澄まして、兄の声を拾い上げる。

「お誕生日、おめでとう」

ひゅっと息を呑む。
それは遠い日の約束。帰って来て誕生日を祝う。
待ち続けて、結局叶わなかった願いだ。
息が苦しい。しゃくり上げる度に、呼吸が上手くできなくなる。
兄の濡れた体に体温を奪われ、体が震え出す。体に力が入らず、崩れ落ちる体を包むように抱き寄せられた。
昔、寒さに震えていた時には、こうして兄が抱き締めてくれていた。かつては温もりを感じていたはずなのに、兄からは冷たさしか感じない。
それが悲しくて、そうまでして帰ってきてくれたことが嬉しくて堪らない。霞み出した思考で、ぼんやりと思った。
世界は嫌なものばかり。痛くて、苦しくて、悲しい。
ふと、先ほどまで響いていた信号を思い出す。

トン、ツー、トン、トン。
ツー、トン、ツー、ツー、ツー。
ツー、トン、ツー、ツー、トン。

頭の中で繰り返して、無意識に口を開いた。

「――還る」

呟いたとほぼ同時に、兄の手が視界を覆う。真っ暗な世界に何故か安堵して、体の力を抜いた。



目を開ける。
知らない場所。仄暗く、冷たいここは、どこかの船の中のようだった。

「おいで」

辺りを見渡していれば、兄が来て手を引かれた。
おとなしくついて行く。歩いているというより、漂っているような感覚が落ち着かない。

「ここだよ」

兄に連れられて入ったのは、どこかの小部屋。本の中で見たことのあるモールス信号を打つ機械に、ここが兄の仕事場だったのかとようやく気づいた。
手を離した兄が、机に近づき引き出しを開ける。中に入っていた、四角い封筒を取り出し、渡される。
促されて封を開ける。中から取り出したカードを見て、じわりと涙が込み上げる。

「ずっと渡せなかったからね。最期に渡せてよかった」

可愛らしい犬や猫の絵柄が描かれたバースディカード。開くと、電子音がバースディソングを奏で出す。
止められなくなった涙を拭われる。眉間に寄ったままの皺を指で伸ばして、兄は微笑む。

「よく頑張ったね。偉いよ」

出せない声の代わりに何度も頷いた。
そうだ。頑張ったのだ。ずっと、嫌いなもので溢れかえる世界の中で一人耐えてきたのだ。
気づけば、ずっと感じていた体の重さも頭の痛みも感じなかった。兄に伸ばされた眉間の皺が、再び刻まれることもない。
腕を伸ばせば、兄が優しく抱き締めてくれる。昔のような大きな体。自分の体が幼くなっていく。

「もういいよ……おやすみ」

そっと囁かれて、兄に凭れ目を閉じる。
何年も浮かべることのなかった笑顔が、自然と浮かんだ。





赤い目をしながら、それでも女は気丈に訪れる弔問客に挨拶を返す。

「この度は、力及ばず申し訳ありません」

そう言って香典袋を渡す男に、女は僅かに顔を綻ばせた。

「先生。来て下さってありがとうございます」
「いえ。私は娘さんに何もできなかった。本当に申し訳ない」

頭を下げる男に、女は慌てて両手を振る。
顔を上げてほしいと頼み込まれ、男は静かに頭を上げる。

「先生には感謝しています。先生がいなければ、あの子はここまで生きることができませんでしたから」
「ですがそれは、ただ苦しみを長引かせるだけだった……あの子には本当に酷いことをした。きっと恨んでいるでしょうね」

そう言って男は悲しく笑う。
とんでもないと首を振る女は、目に涙を浮かべながら黒と白の鯨幕の向こう側を見つめる。
その向こう側では、喪主である夫が弔問客の相手をしていることだろう。泣きたいのを堪え娘の遺影の前で、女のように気丈に振る舞っているのだ。
顰めた顔で映る娘の遺影を思い出し、先生、と女はぽつりと呟いた。

「先生。あの子は確かに、苦しんだのでしょう。ですが最期はとても穏やかだった。眉間の皺が消えて、微笑んで眠るあの子を見たのは、本当に久しぶりでした」

穏やかに語る女とは対照的に、男の表情は曇り出す。

「正直、あの最期は不可解なことばかりなのです。娘さんの状態は安定していたはずだった。来月には退院できるはずだったのです」

娘の状態を思い出しながら、男は告げる。
娘は僅かな時間で息を引き取った。バイタルに変化はなく、巡回していた看護師も変わりはないと証言している。
一瞬のことだ。酸素飽和度を示す値が、九十五から一気に一桁へと下がった。遅れて心電図が心停止を告げ、男が駆けつけた時には既に何をしても手遅れの状態だったのだ。

「そう、でしたね……えぇ、そうでした。苦しそうなあの子を見ていたから忘れていたけど、状態はよかったのでしたっけ」

それならばきっと。
女は一筋涙を溢す。口元は淡く微笑みを湛えて、何かを思うように、遠く見える海を見つめて呟いた。

「あの子の苦しみを見かねて、あの子の兄が連れていったのかもしれません……お兄ちゃんは一回り以上年の離れたあの子のことを、私たち以上に愛し、大切にしていましたから」

微かに船の汽笛が聞こえる。
その音を聞きながら、女は深々と男に頭を下げた。



20250905 『信号』

9/6/2025, 9:32:55 AM

あれからいくつか季節が過ぎた。
彼との関係は変わらない。社で過ごす穏やかな時間も、夢の中での甘い時間も、変わらず続いている。
彼の悲しみに、気づかない振りをしながら。

知ってはいけない。正体を口にしてはいけない。
彼は何度も懇願する。共にいるために、別れの時が訪れることのないように。
けれど同時に、彼は悲しげに空を舞う黒い影を見つめる。社から見える外に視線を向けて、切なげに目を細めている。
故郷を、そして仲間を思う彼を見る度、このままでいいのかと自分の中の何かが囁く。
彼を縛っているのは、社ではなく本当は自分ではないだろうか。告げることのできないこの思いが、彼に何も知るなと言わせているのではないか。

「どうかこのまま。何も知らないままで、私と共にいてください」

背後から抱き締められながら繰り返される言葉に、何も言わずに空を見上げた。
遠く、茜色の空を優雅に飛び交ういくつもの影。
抱き締める腕に力が籠もっていくのを感じながら、今日もまた何も言い出せずに目を伏せた。



それを見つけたのは、彼と出会った日のような秋の初め、雨上がりのことだった。
濡れる石畳の脇、茂る草に覆い隠されるようにして、何かが見えている。気になって草を掻き分け覗くと、それは小さな石碑のようだった。
苔むし朽ちかけた石碑に触れながら、読める文字を探して目を凝らす。汚れを指で拭えばその瞬間、脳裏をいくつもの言葉が過ぎていく。

異国から訪れたモノ。
破壊の化身。それは巨大で、禍々しく、怖ろしい。
多くの人々が命を賭して、社に封じた。
その名を呼べば封は解かれ、再び災厄が訪れる。

過ぎる一つの名前に、息を呑んだ。

石碑から手を離し、頭を抑えた。
頭が痛い。いくつもの言葉が、渦を巻いているようだ。
ふらつきながら家路に就く。ゆっくりと石段を降りながら、思うのは彼のことだった。



夢の中。
いつものように彼に抱かれながら、草原に二人立ち尽くす。
見上げる空には、いつもと同じいくつもの影。
異なるのは、草原の先。遠くに空を飛ぶ影と同じ大きな影がひとつ、こちらを静かに見据えていた。

「――Procella」

震える声。影の名らしきものを紡ぎ、微かに嗚咽が溢れ落ちる。
それは石碑から流れ込んだあの名前の響きに、どこか似ている気がした。

「何も聞かないでください。どうか……」

振り返ろうとする体を強く抱き竦め、彼は願う。
その声の響きはとても悲しい。呼んだ影への恋しさに揺れている。
何も言えない自分の中の何かが囁いた。
彼を解放すべきだ。彼は自分の思いに縛られている。
昼間見た石碑を思い出す。
異国。破壊。災厄。
今の彼からは想像もつかない。しかし、違うとはっきり言葉にできないくらいには、自分は彼を知らなすぎた。
ならばこのままでいいのではないだろうか。自分のためだけではなく、人々のために。
言い訳のように、囁く言葉を否定する。

「どうか、許してください」

嗚咽に紛れ、呟かれた彼の言葉に肩を震わせた。
それは誰への謝罪なのだろうか。草原の先にいる影にか。それとも、彼自身にか。
懺悔にも似た響きに、自分の浅はかさを恥ずかしく思う。
彼と共にいるための理由を並べ立て、彼の思いなど見て見ぬ振りをして。
何かが嘲りを含んで、さらに囁いた。
彼を苦しめているのは自分の存在だ。自分がいるから彼は一人きりで縛られ続ける。故郷にも帰れず、仲間や愛しいモノにも会えず。
彼を悲しませているのは、他でもない自分自身なのだ、と。
唇を噛みしめ、俯いた。
囁きを否定できず、それでも何も言い出すことはできなかった。





澄み切った青空に薄い雲が流れていく、そんな秋晴れの午後。
いつものように社の中へと入り、彼の前に座る。緩やかに金色の眼を細めた彼が何かを言う前に、話があるのだと告げる。

「どのようなお話でしょうか」

金色が陰る。穏やかでありながら悲しみを帯びた声音に、決意が揺らぎそうになる。

「ずっと言い出せなかったことがあるの」

両手を握り締め、彼の眼を見据えた。逸らしてはいけない。逸らした瞬間に、きっと何も言えなくなってしまうから。
少しの沈黙。静かに息を吸って、微笑みを浮かべる。

「私、あなたのことが好き」

彼の眼が見開かれ、息を呑む音が聞こえた。

「あなたを、愛している」

ここで口を閉ざせば、まだ彼と一緒にいられる。
弱い自分がそっと囁いた。聞こえない振りをして、さらにきつく両手を握り締める。


「だから、あなたには自由でいてほしい。私に縛られていてほしくないの」
「っ、それは」
「――あびどす」

Avidus。
正しい言葉の響きではないだろう。けれど彼には伝わったようだ。

「どうして……何故、その名を……!」
「遠い異国の空を舞う竜。どうか故郷へお帰りください」

ざわり。社の中で風が渦を巻いた。
彼の見開かれた眼が歪む。ばきり、ばきりと、何かの音がして、彼の姿が膨れ大きくなっていく。
彼の大きさに耐えられなくなった社が崩れていく。割れた壁の隙間から光が差し込み、彼の姿を露わにしていく。
鈍く煌めく鱗。鋭い牙や爪。長い尾と、大きな翼。
何度も夢で見た、あの茜空よりも赤い色をした竜が、そこにいた。
大地を振動させるような、力強い咆哮。がらがらと音を立てて、彼を縛り付けていた社は跡形もなく崩壊した。

「愚かな人間。愛を囁いた唇で別れを告げるなど、許せるものか」

怒りを宿した金色の眼に見据えられ、思わず肩が震える。
竜の腕に体を掴まれる。今までの彼からは想像もつかないほどに荒々しく、乱暴に。
爪先が肌に食い込み、その痛みに顔を顰める。それを彼は酷薄に嗤った。

「哀れだな。俺を解放すると言いながら、解放されたかったのか?だが、貴様は俺のものだ」

彼の顔が近づく。爪が食い込み滲む血の匂いを嗅ぎ、舌先が傷口を抉る。痛みに声を上げれば、彼はさも愉快だと言わんばかりに眼を細めた。

「――あぁ、そうだ」

不意に、彼が顔を上げる。その視線が街の方角へと向けられていることに、背筋が粟立った。

「俺を封じた忌々しい人間共に、報いなければな」
「駄目っ!」

彼の言葉を遮るように声を上げた。身を捩ったことでさらに深く爪が食い込むが、止まる訳にはいかない。

「俺に指図するつもりか」

苛立ちを隠そうともしない冷たい声音。
以前の彼との差異に苦しさを覚えながらも、その金色の瞳を見返した。

「あなたに、人を傷つけることはさせない」
「貴様に何ができる。この手の中から、どうやって俺を止めると?」

鼻で笑いながら、彼は握る手に力を込めた。
骨が軋むような痛みに、声が上がる。滲み出す視界で、それでも彼を見続けた。
確かに彼の言う通りだ。こうして彼の手の中で、痛みに泣くことしかできない自分にできることなどないのだろう。
それでも言葉を交わせば、彼は理解してくれるのかもしれない。そう期待してしまうほどには、穏やかで優しい彼を信じていた。

「お願い。人を傷つけるのは止めて。このままあなたの故郷に帰って」

どうか、と願いを込めて告げれば、彼の眼が鋭さを増した。長い尾が地面を強く打つ。感じる振動に、思わず身を強張らせた。

「気に入らんな」

彼の声はどこまでも冷たい。

「貴様は俺のものだ。俺以外を思うことは、一時でも許しはしない」

体が宙に浮く。体を掴む彼の手が持ち上がったからだ。
彼の眼前まで持ち上げられ、不快に歪む眼が強く自分を睨む。牙を剥き出しにして、怒りを露わにする。

「俺のことだけを考えろ。この体も、命も、貴様を構成するすべてが俺の所有物だと理解するんだ」

溢れ落ちた涙を、彼の舌が拭う。吐息が頬にかかり、その熱さに眼を閉じた。

「この結末は、貴様が招いたことだ。精々己の軽率さを恨めばいい」

残酷なほど甘い声が頭の中に響く。
その声を最後に、意識は黒く塗り潰された。



次に目覚めた時、そこは闇の中だった。
目を開けているのか閉じているのか。それすらも分からなくなりそうな、真っ暗闇。触れる壁は湿った生暖かさを孕み、鼓動を刻むように微かに振動しているのが感じられた。

「――?」

彼を呼ぼうとして口を開くが、声は出ない。喉に手を当て何度か試したが、吐息一つ音にはならなかった。
込み上げる不安に、彼を探して手探りで歩く。泥の中のような粘ついた地面に何度も足を取られ、体がふらつく。嫌な場所だ。早くここから出て、彼に会いたい。

とても静かだ。足音一つ聞こえず、辺りは塗り潰したかのように少しの輪郭も浮かばせない。
自分は今、どこにいるのだろうか。
彼は近くにいるのだろうか。
いくつもの疑問が浮かび、答えが出せぬままに過ぎていく。何も見えず、聞こえないこの状況に、可笑しくなってしまいそうだ。

不意に、足を掴まれたような感覚がして、そのまま地面に倒れ込む。
痛みはない。弾力のある柔らかな地面は、しかし次の瞬間に音もなくうねり出した。

「――!」

四肢を絡め取られ、地面の中へと呑み込まれていく。いくら暴れても、抜け出すことはできない。ゆっくりと、だが確実に体が沈み込んでいく。
肌に触れる地面の感触に顔を顰めた。夢の中で、彼に背後から抱き竦められている時に感じたそれよりも高い熱。じわりと体の内側に入り込み、すべてを解かしていく錯覚に恐怖を感じて体が震え出す。

「――っ!」

無駄だと知りながらも、何度も声の出せない喉で彼を呼び続けた。
彼の姿が見えない。声が聞こえない。

彼のいない絶望に、心が壊れていく音が聞こえた気がした。



泣きながら名を呼び続ける女の声を聞きながら、竜は恍惚とした笑みを浮かべた。

「そうだ、それでいい。俺のことだけを思い、泣き叫べ」

そっと自らの腹を撫でさする。
先ほどまでの激情は凪ぎ、あるのは女への愛しさと、望郷の思いだけだ。
見上げる空は、青から赤へと色を変え始めている。
翼を広げ、風を起こす。それは荒れ狂う風となって、社の残骸や周囲の木々をなぎ倒した。
竜の動きが伝わったのだろう。か細い女の悲鳴に、竜は再び宥めるように腹を撫でる。次第にすすり泣きに変わっていく声に愛を囁きかけ、だがそれが言葉になる前に竜は静かに口を閉ざした。
竜の眼が僅かに陰る。
女にはもう、竜の言葉は届かない。終ぞ思いを伝えられなかったことに気づき、竜は密かに嘆息した。

「俺を手放す貴様が悪い」

愛の代わりに口をついて出た言葉は、子供の言い訳のように空しく響く。
後悔はない。
元々本能が強い種ではあるが、竜は一際欲が強かった。
貪欲であり、常に何かを渇望する。封じられたことで穏やかになってはいたが、その本質は変わらない。
永い時を孤独に縛られていたある日、訪れた一筋の光。優しく暖かく照らすそれを竜は心から愛し、欲しいと願った。

「愛などと、見え透いた嘘で俺を騙そうなどと」

女の言葉を思い出し、竜の眼に仄暗い光が灯る。
女に愛を告げられた時、竜は歓喜に胸が震えた。だがそれは女の続く言葉に、憎悪にも似た怒りに塗り潰されてしまった。
竜は本能で生きるモノだ。弱肉強食。弱きにかける慈悲などはない。
故に、竜には女の献身が理解できなかった。
ただ女が愛を告げた時に、言葉を返していたのなら。叶わないもしもを、竜は思う。
もしも己も愛していると告げたのならば。夢の中ではなく現実で、正面から女を抱けていたのだろうか。苦痛に歪む顔ではなく、女の微笑みが見られたのだろうか。

「今更だ。どんな過程を得たにしろ、貴様は俺のものなのだから」

自嘲染みた笑みを浮かべる。
もう一度腹を撫でてから、空を見上げた。遠い故郷へ帰るために、大きく羽ばたく。

「――Procella」

愛しげに名を呼ぶ。
それは故郷の空を舞う同胞の名か。
それとも、名も知らぬ女のための新たな名か。

風が巻き起こる。周囲を薙ぐ風が竜の翼を震わせる。一際大きく羽ばたいて、竜の体は空高く舞い上がった。
故郷を目指し、竜は雄々しく飛んでいく。

その眼から蕩々と流れ落ちる涙に、竜は気づくことはなかった。



20250904 『言い出せなかった「」』

9/5/2025, 12:13:00 AM

「――あれ?」

見慣れぬ鳥居を前にして、思わは戻る前に、雨に降られてしまうだろう。
眉を寄せて目の前の鳥居を見つめた。石段を上がった先を覗うことはできないが、社か何か雨を凌げる建物があるかもしれない。
僅かな期待を胸に、雨から逃げるように鳥居を潜り抜け、石段を駆け上がった。



石段を上がった先には小さな社があった。
長く手入れをされていないのだろう。朽ちかけた社に、足が止まる。
ぽつり。肩に触れた冷たい感覚に、はっとして空を見上げた。
ぽつりぽつりと、灰色の空から振る雨が顔を濡らす。

「仕方ない、か」

幸いなことに、雨の勢いはそれほど強くはない。朽ちかけてはいても、雨を凌ぐことはできるだろう。
そう判断して早足で社に近づくと、暗い中へと足を踏み入れた。



「――おや、珍しい」

入口に座り止まない雨を見ていると、不意に奥から声が聞こえた。
ぎくり、と体が強張る。こんな朽ちかけの社に自分以外の存在がいることが信じられず、怖ろしさに肩を震わせた。

「あぁ、そう警戒なさらないでください。私はただの抜け殻。社に縛られ、外に出ることの叶わぬモノです。ここに足を踏み入れた者を害したことは、一度もありません」

振り返れば、奥の暗がりに金色の光が二つ煌めいていた。時折瞬くそれが声をかけた誰かの瞳だと気づき、狼狽える。

「そこにいては、吹き込む風と雨で体が冷えてしまうでしょう……どうぞこちらへ。雨が上がるまでの間、お休みください」

穏やかな声音に、強張る体から力が抜けていく。
そろり、と奥へと足を踏み出した。明かりのない社は薄暗い。外から見た時には、中も荒れているのかと思っていたが、不思議と雨漏りも床の痛みもみられなかった。
暗がりの灯る誰かの金色の瞳を前に、腰を下ろす。聞きたいことはあるが、瞳を見ていると言葉が何一つ出てこない。
雨の音が社に響く。
目の前の誰かも何も言わず、けれどその沈黙に何故か心地良さを感じていた。
低い声からして、目の前にいるのは男の人だろう。彼は一体何者なのか。縛られているとはどういう意味か。
雨の音を聞きながら、いくつもの疑問が込み上げるが、相変わらず言葉は出てこない。

「何も、知ろうとなさらないで下さい」

その疑問を見透かしたように、彼は言う。

「どうか何も知らずに……雨が上がるまでの僅かな時を、共に過ごさせてください」
「寂しいの?」

憂いを帯びた彼の声音に、自然と声が出た。灯る瞳が驚いたように見開かれ、そして静かに細められていく。

「――えぇ、そうですね。永い間、ここにひとりきりでおりました。それも運命と受け入れておりましたが、私は寂しいのでしょうね」

自嘲するような吐息。
すべてを諦めているような、静かな声だった。

ふと、雨の音が消えていることに気づく。入口を見れば、僅かに見える空に青空が見え始めていた。

「雨が上がりましたね。お気を付けてお帰りなさい」
「えっと……ありがとう」

促されて、彼に背を向けて外へと向かう。
見上げる空に、もう少し雨が続いてくれればと、八つ当たりじみたことを思った。

「こちらこそ。久方振りに楽しい時間を過ごせました」

優しい声に振り返る。
金色の瞳は、変わらず仄かに瞬いている。社に縛られているという彼は、その場から動けないのだろうか。

「――また、会いに来るから」

思わず口をついて出た言葉に、彼だけでなく自分も驚いた。
しかし、嫌ではない。彼と過ごした時間はとても穏やかで、離れがたいと思ったことも事実だった。

「それは――」

彼が何かを言う前に外へと駆け出す。
ふわふわとした、夢見心地がいつまでも続いていた。



不思議な出会いの後、言葉通り数日おきにあの社の元へ通っていた。
彼について、変わらず何も分からない。知らないでくれと願われて、敢えて知ろうともしなかった。
ただ、何も語らずその静寂を楽しみ、時折いくつかの言葉を交わす。それだけで満たされた気持ちになった。
彼について知りたい気持ちはある。しかし知ってしまうことで、二度と会えなくなるのは嫌だった。
彼といつまでも一緒にいたい。
いつしか自分は、彼に淡い想いを抱くようになっていた。


ある夜。不思議な夢を見た。
茜空の下、どこまでも広がる草原を歩いていた。
隣には彼がいる。視線を向けなくても、気配で感じられた。
風が流れ、雲が過ぎていく。影が伸びて、見えたものに息を呑んだ。
自分と彼と。二人分の人影。しかし彼の影は時折揺らぎ、別の姿を形作る。
長い尾。大きな翼。
不意に影が差し、空を見上げた。
茜空をいくつもの巨大な何かが飛び交っている。
鳥ではない。物語の中にだけ存在するはずのそれは――。

「言ってはいけません」

口にしかけた言葉は、背後から伸びた指に止められる。

「私の正体を口にすれば、私はあの社から解放される……ですがそれは、あなたとの別れを意味しています。どうかこれ以上、知ろうとなさらないでください」

彼の人差し指が触れたままの唇で、どうしてと声なく呟いた。
解放されるのならば、彼にとってそれは喜ぶべきことだろう。なのに何故、そんなにも悲しい声音で何も言うな、知るなと懇願するのか。

「あなたとの穏やかな時間を、このまま楽しんでいたいのです……故郷への思いを捨てた訳ではない。同胞を忘れた訳でもない……ですが、どうか」

震える声に、口を閉ざす。
彼と共にいたいのは、自分も同じだった。
唇に触れた指が静かに離れ、代わりにそっと抱き締められる。彼に触れられたのは初めてだ。
彼から伝わる体温と鼓動に、次第に頬が熱を持つ。早くなる鼓動を彼に知られるのが恥ずかしくて、今すぐに離れてしまいたい。けれどこのままずっとこうして彼の熱を感じていたい。
相反する感情に、くらりと甘い目眩がした。

伸びた人影は二人分。重なったひとつが、広い草原に伸びていく。
気づけば空を飛んでいた影は見えず、世界に二人だけが取り残されたような気持ちになる。
彼は何も言わない。自分も何も言う気はなかった。
口にしてはいけない、彼の秘密。誰にも知らせることのできない、彼との関係。
きっとこの気持ちは、彼にすら伝えられない。

日が暮れていく。紺に染まり出す空を見ながら、この時が永遠に続いてほしいという願いを、そっと心の奥底に隠した。



20250903 『secret love』

Next