sairo

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11/17/2025, 9:59:32 AM

白い月が浮かぶ夜。
少女は一人、月明かりを浴びて踊っていた。
くるりと回り、高く飛び上がる。
広がる白のスカートが、まるで羽根のように見えていた。

夜は少女のためだけの舞台。月明かりというスポットライトを浴びて微笑む少女は、誰よりも何よりも美しかった。

惚けたように少女を見つめていれば、不意にこちらを見つめる目と視線が合った。
息を呑んで硬直していれば、少女はふわりと微笑みこちらへと近づいてくる。

「こんばんは」

透き通った、美しい声音。意味もなく視線を彷徨わせながら、小さく頭を下げてみる。

「こ、こんにちは」

くすくすと笑う声すら美しい。不躾に見ていたことが恥ずかしくなって、顔を俯かせ、もごもごと口を開いた。

「あ、えっと……勝手に見てて、ごめんなさい。その……すごく、綺麗だったから……」

今まで見てきた何よりも。
そう心の中で付け足した。
それほどに少女の踊りは美しかった。他の誰かの踊りなど、比較にもならない。幻想的で儚さすら感じるその姿は、この世のものではないかのようだった。
そんな美しさを、自分は知らない。人も、絵も、景色も、少女ほど綺麗なものを見たことはなかった。

「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいわ。寝坊をしたと気づいた時は途方に暮れたけれど、こんなに綺麗な月と褒めてくれるあなたに出会えたのだから、逆に幸運だったのかもね」
「寝坊?」

くるりくるりと可憐に舞う少女の意外な言葉に、目を瞬いた。幻想的で遠い存在に思えた少女が、一気に身近に感じて、知らず強張っていた体の力が抜ける。

「そうよ。目が覚めたら、一人きりなんですもの。最初はとても慌てていたのよ」

そうは言うものの、少女は穏やかに月を見上げた。
白くしなやかな指先が月に照らされ。淡く浮かぶ。夜を掻き分けるかのように、静かに揺らめいた。

「どうしてそんなに綺麗に踊れるの?」

可憐な動きに目を奪われながら、気づけば胸の内に込み上げた思いを口にしていた。

「後悔したくないから」

その問いに少女は月に向けて微笑みながら、歌うように囁いた。
意味が分からず、少女の視線を追って月を見上げる。煌々と輝く白の月は、けれども少女の後悔の意味を教えてはくれなかった。

「何を後悔するの?」

首を傾げて、さらに問いかける。困惑するばかりの自分に、少女は優しく楽しげに笑う。

「だって、たった一度だけの、こんなにも綺麗な月夜なんですもの」

夜に解けていく涼やかな声音。その言葉の意味は、やはりよく分からなかった。

「明日も月は出るのに?」
「明日の月は、今日の月ではないわ。今、この瞬間の私を照らしてくれるのは、今日のこの月だけ」
「今日の、月……」

月と少女を見ながら、目を細める。意味を理解できないけれど、何故か分かったような感じがした。

「明日も、また会える?」

夢見心地に、そう問いかける。

「私は、今日だけよ」

少女は笑う。
そうだろうな、と自分も笑った。

「起きたのが今日で、本当によかった。後悔なんてほんの少しもしないで、自由に咲き誇ることができるもの……ありがとう。私を見てくれて。綺麗だって言ってくれて、とっても嬉しい」

心からの微笑みを湛えて、少女はスカートの裾を持ち上げ可憐にお辞儀をした。静かな夜のステージで、月のスポットライトに照らされながら、少女は再び踊り始める。
くるりと舞えば、スカートの裾がふわりと広がる。月明かりを浴びて白く煌めきながら、優雅にステップを踏み続ける。
ふと空を見上げた。月は静かに、冴え冴えとした白を湛えている。
いつもと変わらない、澄んだ夜空に浮かぶ月。
けれども――。

少女を照らす今夜の月は、初めて見るような荘厳な美しさを秘めているような気がした。



次の朝。
少女と出会った場所を訪れると、やはり彼女の姿はどこにもなかった。
代わりに残されていたのは、咲き終わり朽ちて萎んだ一本の花。夜にだけ咲くというその白い花に、そっと指先を触れさせた。
たった一夜。ひっそりと咲く花には、確かに昨日はなく明日もない。
見上げる空には、月はない。雲一つない青空にあるのは、眩しい陽だけだ。

「今日だけの、特別……」

もう一度花に触れ、静かに立ち上がる。少女の動きを真似て、ゆっくりとステップを踏み出した。
少女の踊りとは比べものにならない、拙い動き。それでも必死で記憶の中の少女を追いかける。あの時一緒に踊れたのならばよかったと、小さな後悔に思わず苦笑した。

後悔のないように。
少女と違い明日がある自分は、この先も何度も後悔しながら進み続けるのだろう。

――大丈夫。あなたには明日の月が照らしてくれるわ。

吹き抜ける風が、彼女の声を運んだ気がした。
動きを止めず、過ぎていく風を視線で追いかける。

「――あぁ、本当だ」

風を追って見上げた空。
朧気に浮かぶ白の月に、思わず笑みが溢れ落ちた。



20251116 『君を照らす月』

11/16/2025, 2:11:40 PM

懐かしい歌が聞こえた。
あの子ではないと知りながら、視線は声の主を求めて彷徨う。遠くで駆けていく子供たちの姿に、あの子ではなかったことを認めて肩を落とした。
何度繰り返しただろう。少しも前に進めないことを自嘲する。馬鹿だと思いながらも、葉の落ちた木々にまたあの子の思い出を重ねて足を止めた。
青々と葉が茂る木々の下、木漏れ日を浴びてうたた寝をするあの子の幻を見る。
瞬きの間に、幻は跡形もなく消えていく。近づいて地面に触れても、そこには温もりの欠片も残ってはいない。

「本当に、馬鹿だなぁ」

木漏れ日のような暖かな笑みを浮かべたあの子の跡は、この先も消えはしないのだろう。

すべては自分の選択の結果だ。それなのに今も醜く縋る心に、吐き気がしそうだった。



先日、あの子の手を離す選択をした。
気づけば常に側にいたあの子。自分以外には見ることのできない、特別な存在。
悲しい時も、寂しい時も、あの子がいれば耐えられた。
あの子が笑えば、自然と自分も笑うことができた。
そんな大切なあの子と、このままずっといられたのなら、それはとても幸せなことだろう。自分は一人ではない。導いてくれる絶対的な味方がいることは、自分を穏やかにさせてくれていたことだろう。
けれど、だからこそ手を離そうと思った。
あの子の優しさを犠牲に、甘えて楽な道を進む訳にはいかない。自分の笑顔のために、あの子が笑う陰で苦しんでいるのではないかと思うと落ち着かなかった。
理由はそれだけではないだろう。
成長していく自分と、変わることのないあの子。その違いがこれ以上大きくなっていくことが、きっと耐えられなかったのだ。
両手に視線を落とし、強く握り締める。
あの時から、あの子に一度も会えていない。影すら見えず、それが何よりも痛かった。

ふと、歌声が聞こえた。
あの子がよく歌ってくれた歌。もう聞くことのできない歌。
気づけばまた、足は歌声が聞こえる方へと進んでいく。街路樹を過ぎ、住宅街を抜け。そうして町外れの雑木林の中へと進んでいく。
今は誰も近づかなくなったこの雑木林は、あの子と二人だけの秘密の遊び場だった。懐かしさに目を細めながら、声を求めて奥へと向かった。



「――あ」

強く風が吹き抜けて、思わず目を閉じた。次に目を開けた時、目の前の景色は一変していた。
葉が落ちた木々は、時計の針を戻すかのように葉が生い茂る。落ち葉で覆われた地面は、色鮮やかな花の咲き乱れる花畑へと変わる。
木漏れ日の下、花に囲まれながら、あの子が――大切な自分だけの友人が楽しそうに歌っていた。
友人の目がこちらに向けられる。歌が止まり、柔らかな微笑みと共に両手を伸ばされる。

「悲しいの?歌ってあげるから、おいで」

囁く言葉と同時に、その腕に駆け込んでいた。

「泣かないで。もう大丈夫だよ」

頭を撫でられながら、大丈夫だと繰り返される。優しく、甘い声音。込み上げるのは、手を離した後悔ばかりだ。

「ごめんなさい」

謝罪の言葉を繰り返しながらも、その優しさに縋る。小さな体にしがみつけば、友人は小さく笑ったようだった。

「いいよ。このまま、側にいてあげる。今までそうだったように、これからもずっと」
「ずっと……?」

友人の言葉に、頭の芯が冷えていく。
自分の幸せのために、友人がこれからも消費され続けていく。自分に繋ぎ止められて、苦しんでしまう。
笑顔の裏で泣く友人の姿を想像して、歯を食いしばり体を離した。

「ずっと……じゃなくて、いい。もう少し……今だけ。お願い……」

俯き、震える声で伝える。
友人の顔が見れない。喜んでいても、悲しんでいても、見てしまえば、決意が揺らいでしまう。
友人は何も言わない。静かにこちらを見つめる視線を感じながら、必死に涙を堪えていた。

「今だけ、ね」

不意に友人は呟いて、次の瞬間には強く手を引かれた。
咄嗟のことに逆らうこともできずに、そのまま友人の胸に倒れ込む。

「っ、何、急に……」
「今だけ、だよ」

頭を抱かれ困惑する自分を気にせず、友人はそっと歌い出す。
悲しい時、いつも歌ってくれた歌。離れようと伸ばした手が、力なく友人の服を掴む。

「少しお休み。また、起きた時にね」

ぽんぽんと、あやすように背を叩かれ、瞼が閉じていく。染み込んでいく歌声に、意識が沈んでいく。

目が覚めたら、今度こそ。
木漏れ日のように暖かで優しい、友人の手を離さなければ。笑って、送り出せるようにならなければ。
何度目かの無意味な決意をしながら、夢の世界に落ちていった。





穏やかな寝息を立てる少女の頭を撫で、少年は静かに立ち上がる。
その表情は少女に見せていた柔らかさなど欠片もない。酷薄に口元を歪め、眠る少女を見下ろしていた。

「今だけ、ね」

少女の言葉を嘲笑い、少年は懐から小さな砂時計を取り出した。
砂時計の砂が落ちていき、周囲の時が反転していく。花は枯れ木の葉は落ちて、瞬きの間に物寂しい元の景色へと変わる。

「今回も駄目か。強情め……いや、臆病と言った方が正しいか」

くつくつと喉を鳴らして嗤いながらも、その目には強い怒りが浮かんでいた。

「この俺を手放せると思うなよ。お前が受け入れるまで、何度でも繰り返してやろう。それまで手を離したことの後悔に苦しむといい」

どんな理由があれ、少女が手を離したことを少年は許すつもりはなかった。故に少年は同じ時間を繰り返す。
少女が孤独に耐えかねて少年の跡を求め、そして永遠に受け入れるまで、何度でも。

「俺の手を取った時から、お前は一人では生きては行けぬと、いつになったら気づくのだろうな。お前の笑顔のために必要なのは、俺くらいだというのに」

眠る少女に向けて、少年は冷たく言い放つ。
暖かな木漏れ日を失い、その跡を求めて身を丸くする少女に眉を寄せた。
眠る少女の体には、いつの間にか無数の傷ができている。傷が痛むのか、その表情もどこか苦しげだ。

「また増えているな。心が痛み苦しむだけだというのに、何故意地を張って手を離すのか」

静かに膝をつく。傷口に手を触れ、傷も痛みも消していく。触れた後には、傷跡一つ残らない。
身を縮め、少女は静かに涙を流す。その姿に少年は怒りを堪えるかのように、唇を噛み締めた。

「ほら、元通りになった。だからもう泣くな。痛みもないだろう?」

少女の頬を伝う涙を拭い、頭を撫でる。次第に少女の口元が綻ぶのを見て、少年もまた淡く微笑んだ。

「さて、今度こそは求めてくれればいいのだが。お前が受け入れなければ、契約は成立しない」

呟いて少年は立ち上がり、少女に背を向ける。
景色が歪み、少女の部屋へと形を変えた。

「また、後でな」

小さく笑い、少年は歌いながら去っていく。

一人残された少女は何も知らず、同じ時を繰り返す。
作られた舞台に気づかずに。
少女にとっての木漏れ日を求めて、またその跡を追いかける。



20251115 『木漏れ日の跡』

11/16/2025, 6:11:38 AM

赤や茶色の葉で覆われた道。見上げる木々の葉は、殆どが散ってしまった。
今日もまた、待ち人は来ないのだろう。約束したことすら忘れているのかもしれない。

「嘘つき」

寒さに悴む手に息を吹きかけ温めながら、来ない相手に向けて呟いてみる。答える声は、聞こえてはこない。
分かってはいてもそれが悲しくなって、誤魔化すように足下の落ち葉を蹴り上げた。かさりと舞い落ちる葉に、益々寂しさが募る。

――来年もまたこの場所で、一緒に紅葉を見よう。

ささやかな約束。指切りまでしたそれは、結局はその時場限りの形だけのものだったらしい。
もう一度、落ち葉を蹴り上げ歩き出す。
暦の上では、既に冬が来ている。もうすぐ葉はすべて散り、雪が降り始めることだろう。
そうしたらきっと、諦めもつくはずだ。
それまでの日にちを心の内で数えながら、一人寂しく家へと向かった。



次の日も、気づけば約束の場所で一人立ち尽くしていた。
見上げる木々には、もう数える程しか葉がついていない。諦めれきれない自分を嘲笑うように、また一枚風に乗って葉が散っていく。

「嘘つき」

俯いて、込み上げる涙を乱暴に拭う。唇を噛みしめて、込み上げる嗚咽を必死に呑み込んだ。

今日で最後にしよう。
雪を待ってなどいられない。葉がすべて落ちた木々を見るのは、苦しくて耐えられないだろうから。
きつく目を閉じ、呼吸を整える。もう一度涙を拭い、俯く顔を上げ目を開けた。
じわりと涙で滲む、目の前の景色。その視界の端に、誰かの姿が見えた。

「え?」

目を擦り、その場所を見る。けれどそこには誰もいない。
いないはずだ。それなのに、込み上げる涙で視界が滲めば、そこに誰かの姿が見えた。
朧気な輪郭。自分と同じ年頃の少女に見えるその誰かは、手にした何かに視線を落とし、そしてそれを耳に当てた。
それがスマホだと気づいた時、ポケットの中に入れたままの自分のスマホが誰かからの着信を伝えた。
ポケットの中からスマホを取り出す。滲んだ視界ではそれが誰からの電話なのかは分からない。
それでも震える指は、通話ボタンを押していた。

「――もしもし」

スマホを耳に当てれば、電話越しに誰かの息を呑む音がした。
滲む視界で見える誰かが動揺したように、体を揺らす。

「誰?」

そう問いかければ、小さく鼻を啜る音が聞こえる。
そして、一度しゃくり上げる声がして。

「やっと通じた……このおバカ。どこにいんのよ」

待ち焦がれた、懐かしい声が鼓膜を揺すった。



「どこって……?」
「いいから!今どこにいんの?迎えに行くから教えなさい!」

懐かしさに浸る暇もなく、叫びにも似た勢いで場所を問われる。それに思わず目を瞬けば、涙が溢れ落ち滲む世界にだけ見える目の前の誰かの姿が消えていく。

「あ……」
「何か目印になるものとかないの!?……あぁもう!あんたほんとにどこにいんのよ?」

怒っているというよりも、焦ったような声音。消えた誰かに向けた意識を戻して、戸惑うように口を開く。

「え、と。その……約束した、場所」

口にしてから、相手は覚えていないだろうことに気づく。それに苦しくなって俯きかけるが、相手は容赦なく問いを重ねた。

「それって、どの約束!?海?山?喫茶店とか商店街の方!?」
「あ、その……」

勢いに口籠もるが、同時にたくさんの約束をしたことを思い出す。一緒に遊ぶ度、どこかへ行く度にささやかな約束を繰り返していた。
それを彼女は覚えてくれている。じんわりと胸が温かくなるのを感じて、笑みが浮かんだ。

「紅葉を見に行こうって行ったから……だから、ずっと待ってた」
「ここ!?……あぁ、待って!そこ、動かないでよ!」

風が落ち葉を舞い上げる。ざかざかとまるで誰かが近づいてくるような音を立て目を瞬いていれば、不意に右手に熱を感じた。

「え……?」
「捕まえた!」

右手を見ても、何もない。けれど足下、自分の影と手を繋ぐ誰かの影が揺れている。

「よし!このまま、急いで神社に行くからね!」
「神社?なんで……っ!?」

意味が分からず問いかける前に、ぐいと手を引かれて走り出していた。急なことに転ばないようにするだけで精一杯で、何も言葉が出てこない。
相手も何も言わず、それでも通話はそのままに、この町で一番大きく古い神社へと向かって走って行く。
何が起こっているのだろう。理解を超えた出来事に、それでも感じるのは恐怖ではなくやっと会えたという喜びだった。繋いでいるだろう手を、離れないように強く握る。相手も握り帰してくれることが、ただ嬉しかった。



辿り着いた神社は、普段と違いひっそりと静まりかえっていた。
走る足を止めず、そう言えばと今更ながらに気づく。
ここに来るまでに、誰ともすれ違うことはなかった。人だけではない。烏や猫などの生き物や、車でさえ見かけなかった。

「このまま裏の滝に飛び込むからね!……あ、ちょうど良かった。二人分のタオルと着替え、用意しててくんない?」

だが、電話の向こうでは、そうではないらしい。

「分かった!ようやく見つかったんだね」
「見つかったのか!?俺、おばさんたちに連絡してくる!」
「滝に行くってことは、やっぱり神隠し!?なら、父さんにお祓いしてもらうから。戻ってきたら社務所に来てよ!」
「分かった!ありがとう!」

複数の人の声。慌てたようにばたばたと音がする。
それも遠ざかり、神社の裏手にある小さな滝へと走っていく。
向かう先に滝が見えて、速度が上がる。本当にこのまま飛び込むらしいことに気づいて、焦りで繋ぐ手を引いた。

「ま、待って!?まさか、このまま?」
「当たり前!諦めて覚悟決めなよ」
「や、待って……待ってって……」

抵抗も空しく、手を引かれて走る勢いのままに滝に飛び込んだ。
ばしゃんと水しぶきを上げて、体が沈んでいく。冷たい水が容赦なく体温を奪い、意識が朦朧とし始める。
だがすぐに誰かの手に引き上げられ、震える体にタオルをかけられた。

「もう!皆心配したんだからね」

泣き腫らした赤い目をした友人が、タオルで水気を拭きながら抱き締めてきた。
ぼんやりと辺りを見渡す。友人たちや神社の関係者、近所の人たちの姿を認めて、目を瞬いた。

「寒い!死ぬ!これ以上外にいたら、凍え死ぬ!」

声が聞こえた。けれどスマホは滝に飛び込んだ際に手放してしまい、手元にはない。
電話越しではない、彼女の声にゆっくりと視線を向ける。
同じようにタオルで体を拭かれながら、彼女の兄に呆れた目を向けられているのが見えた。

「当たり前だ、馬鹿。この時期に滝に飛び込む奴がいるか」
「でもこれが一番確実だったし!」
「阿呆。風邪を引いたらどうするんだ」

溜息と共に小突かれている彼女と目が合った。
体を震わせ、かちかちと歯を鳴らしながらも嬉しそうに笑う。

「約束。ちゃんと覚えてくれててありがとう」

彼女の兄に抱き上げられ、彼女は社務所へと運ばれていく。それをぼんやりと見ていれば、同じように誰かに抱き上げられた。
驚いて視線を向ければ、眉間に皺を寄せて弟が自分を抱き上げている。彼女たちを追って、足早に歩き出した。弟の姿を見るのは久しぶりだ。それが何故かを考えて、ようやくすべて思い出す。

「あ……神隠し……」

黄昏を過ぎた後、女子供が一人で外にいれば神隠しに遭うという。
今では信じている者は殆どいない、古い言い伝え。幼い頃に両親としたささやかな約束を今更ながらに思い出した。

「皆、心配したんだからな」

弟の微かな呟きに、ごめんと小さく謝った。
目を閉じる。冷えた体を温める熱が、帰ってきたことを伝えている。

約束を破り神隠しに遭い、約束に縋って戻ってこれた。
深く息を吐けば、指切りをした小指がじわりと熱を持った気がした。



20251114 『ささやかな約束』

11/15/2025, 9:29:06 AM

手を合わせ、目を閉じる。
ただそれだけ。自分にできることは、ほんの些細なことだ。
この祈りが、正しく届いているのか分からない。知る術はなく、すべては自分の思い込みなのかもしれない。

「いつも、ありがとう」

隣で同じように手を合わせていた祖母が礼を言う。その言葉に落ち着かなくなるのはきっと、まだ信じきれていないからだろう。
祈りが届くことを、どこかで自分は疑っている。
だから考えてしまうのだ。

この祈りに、果てはあるのかを。



「どうして人は祈るの?」
「――は?」

ぼんやりとテレビを見ていた姉が、訝しげな視線を向ける。口に出すつもりはなかったが、どうやら声に出てしまっていたらしい。曖昧に笑みを浮かべて何でもないと首を振るも、姉はテレビを消してこちらに向き直った。

「祈りが、何だって?」
「いや、別に大したことではないんだけど……どうして、人は祈るのかなって」

姿形の見えない相手に、何故祈るのか。届くかどうかすら分からないというのに、人は当然のように何かの節目で、切っ掛けで祈る。
行事の一環として祈る人。幼い頃から身についた習慣で祈る人。真剣に祈りを捧げる人。
理由は様々でも、何かを祈るその行為を何故誰も疑問に思わないのだろうか。

「そもそも、祈りって何だろう」

疑問を口にすれば、姉は笑うでもなく真剣な目をして考え込む。
しばらくして、姉は静かに首を振る。微笑みを浮かべて静かに口を開いた。

「考えてみたけど、よく分からなかった。祈る理由は人それぞれだし、祈りに対する期待も本気度も違う」

そう言って、姉は手を合わせる。祈りの形を取りながら、でも、と穏やかに呟いた。

「どんな祈りにも、願いがある。自分自身のため、誰かのため……叶ってほしいけれど、叶うか分からない願いを誰かに聞いてほしいから祈るんじゃないかな」
「願いを、聞いて欲しい?」

首を傾げた。分かるようで、いまいち分からない。

「それって、祈りが届かなくても構わないってこと?」
「届いて欲しいとは思っているよ。届いて、できれば叶えて欲しい……きっと祈りって、願い事の最後の希望なんだと私は思う」

願い。希望。
姉の言葉を、心の内で繰り返す。無意識に眉が寄り、それを見て姉はくすくすと笑った。

「眉間の皺が凄いことになってる……なんで急に祈りがどうとか言い出した訳?」

人差し指で眉間の皺を伸ばされながら問われ、口籠もる。視線を逸らしたくとも、姉が笑いながらもそれを許さない。
小さく息を吐いて、姉の手を掴みながら呟いた。

「祈りの果てってあるのかなって……お祖母ちゃんを見て、そう考えた」
「お祖母ちゃん……?」

驚いたように目を見張った姉は、だがすぐに優しい笑みを浮かべた。
眉間から指を離して、代わりに頭を撫でられる。

「ちょっ、なに……?」
「祈りの果てはあるよ。ちゃんとここに」
「え?」

頭を撫で続ける手を掴みながら、姉に視線を向ける。
意味が分からない。その言葉の真意を求めて問いかける前に、掴んだ手を逆に包まれて抱き寄せられた。

「果てって、つまり行き着く最後の場所でしょ?お祖母ちゃんの祈りはちゃんと届いて、こうして今も元気に変なことばかり考えてるよ」

ぽんぽんと背中を叩かれ、笑われる。
優しい顔。手の暖かさに、何も言えずに姉の肩に額を押し当てた。
何故忘れていたのだろう。意識の靄が晴れていくように、忘れていたたくさんのことを思い出す。
行かなければ。祖母に会わなければいけない。

「お祖母ちゃんには、もう大丈夫って伝えておいで。今のあんたには、祈りなんて必要ないでしょ?」
「――うん」

小さく頷いて、ゆっくりと姉から離れる。
確かに姉の言う通りだ。誰かの祈りがなくても、自分はしっかりと歩いて行けるのだから。
部屋を出て、玄関に向かう。
急ぐ足は外に出る頃には駆け出していた。早く祖母に会いたくて伝えたくて、気が急いてしまう。

「お祖母ちゃん」

優しい祖母の笑顔を思い浮かべながら、夢中で走り続けていた。



いつもの場所で、いつものように祖母は手を合わせて祈っていた。
側に寄れば、顔を上げてこちらを振り返る。柔らかな笑みを浮かべて、祖母はいつもの言葉を口にする。

「ありがとうね」

祖母の感謝の言葉が、何を意味していたのか。ようやく気づくことができて、胸が苦しくなった。

「お祖母ちゃん」

声をかければ、祖母は驚いたように目を瞬いた。
一歩、祖母に近づいた。震える唇の端を上げ、笑顔を作ってみせる。

「もういいよ、お祖母ちゃん」

泣くのを堪えた、不格好な笑顔。それでも祖母は目を細めて、眩しそうにこちらを見た。

「もう、いいのかい?」
「いいよ。私、とっくに七つを過ぎて、今度高校を卒業するんだよ……もう神様にお願いしなくても、ちゃんと生きていけるから」

微笑む祖母の姿が次第に霞み、朧気になっていく。穏やかに笑む目の端に煌めく滴を溜めながら、祖母は何度も頷いた。

「そうかい。そんなに大きくなったんだねぇ。ばあちゃん、神様にお祈りするのに夢中で、全然気づかなかったよ」
「ずっと隣にいたのに、ちゃんと私の成長した姿を見ていてよ」
「ごめんよ……うん、とってもべっぴんさんになった。本当にありがとうね」

健やかでいてくれて。還らずにいてくれて。
祖母の祈りが、鼓膜を揺する。幼い頃に彼岸に足を踏み入れかけた私を引き戻した、祖母の願いが体に染み込んでいく。
祖母の祈りの果て。願いの行き着く先。聞き届けられ、叶えられて、今こうして私はここにいるのだと告げている。

「私こそありがとう……もう大丈夫。これからは私が神様にありがとうって伝えるから。だからお祖母ちゃんは、休んでくれていいんだよ」

消えていく祖母に、そっと手を伸ばす。すり抜けるかと思ったその手はすり抜けず、そのまま祖母を抱き締めた。

「なら、お言葉に甘えて休もうかね……ありがとう。あの時戻ってきてくれて。生きてくれて、本当にありがとうね」

祖母の手が背中に触れた。感謝の言葉を繰り返し、祖母は微笑みながら消えていく。

温もりが消えて、手を下ろした。強く目を閉じて、深く呼吸をする。
込み上げる感情を沈めて、笑顔を作りながら静かに手を合わせた。

「ありがとう」

この祈りに果てがあるのかは分からない。聞き届けられているのか、知りようもない。
けれども祖母が祈り続けた分の感謝の祈りを。
それ以上の思いを込めて、社に祈りを捧げ続けた。



20251113 『祈りの果て』

11/14/2025, 3:40:39 AM

鏡に手をつき、溜息を吐いた。
同じ場所をぐるぐると回っている。違う道を選んでも、最後にはまた最初のこの場所に辿り着いてしまう。

「疲れた」

鏡に凭れながら座り込む。周りの鏡に映る自分も、同じように座り込んだ。
ミラーハウス。鏡の迷宮。
何故こんな所にいるのか。いつからいるのかは分からない。
ただ早く帰らなければという焦燥感が常に付き纏い、心を落ち着かなくさせている。
帰らなければ。いつまでも、迷っている訳にはいかない。
深く息を吐いた。顔を上げて、ゆっくりと立ち上がる。

「帰らないと」

自分に言い聞かせるように呟いて、また迷路の中に足を踏み入れた。



「なんで帰りたいの?」

背後から声が聞こえ、咄嗟に振り返る。

「え……」

無数の鏡に映るそれに、息を呑む。無意識に後退る自分を嘲笑うかのように、鏡の中の幼い自分はサイズの合っていないシャツを揺らす。

「帰った所で、苦しいだけじゃない」

幼い自分の声に被さるように、赤子が泣く声が聞こえた。背後の景色が揺らぎ、ベビーベッドのある室内を映し出す。両親が慌てたように、幸せそうにそれぞれ赤子を抱き上げ笑う。その側で、兄も興味深げに双子の弟妹を見つめていた。

「本当に帰りたいの?」

兄のお古を着た、幼い自分が問いかける。
笑う両親に抱かれた双子は、どちらも綺麗な服を着ている。誰もが幸せそうで、笑っていないのは自分くらいなものだ。

「帰りたいの?」
「帰らないと」

繰り返す幼い自分の問いに、呻くように呟いた。
首を傾げる自分から逃げるように背を向ける。無数の怯えた顔をした自分の姿が視界に入り、密かに安堵の息を吐いた。

帰らなければならない。
理由を思い出せないその衝動だけで、迷路の先へと歩き出した。



「今更帰ってどうするの?」

声が聞こえて立ち止まる。
恐る恐る振り返れば、一枚の大きな鏡に映る、学生時代の自分がいた。

「あの時何も言わなかったくせに、今更帰って文句でも言うつもり?」

無表情な自分の後ろで、楽しそうに双子が笑う。
弟はサッカーに精を出し、妹はピアノ教室に通っていた。

「やりたいことがあったのに、家族のためだって何も言わなかったのは自分。なのに、後悔しているの?やりたいこともやれなかった自分が可哀想だなんて、思ってでもいるの?」
「違う……そんなこと、思ってない。ただ、帰りたくて……帰らないと……」

後退りながら、言い訳のように帰らなければと繰り返す。そんな自分を、学生時代の自分は冷めた目で見つめ問いかける。

「帰って、何がしたいの?」

口を噤む。何も思い出せずに、俯いた。
何か言わなければ。そうは思うのに言葉は出ず、足は縫い止められたかのように動かない。
戸惑い怯えて立ち尽くしていれば、不意に腕を掴まれた。

「何してんだよ?遅れるぞ」

視線を向ければ、幼馴染みが眉を寄せて立っていた。

「え、あれ……?」
「まったく、道の真ん中でぼーっとしてんなよ……先行ってるからな。お前も早く来いよ」

呆れたように笑いながら、幼馴染みは掴んだ腕を離して歩いて行く。それを追いかけようとして、後ろが気になり振り返った。
そこには無数の鏡に映る、無数の自分がいるだけで、学生時代の自分はもうどこにもいない。
深く息を吐いて、前を向く。幼馴染みの姿も、どこにも見えない。
密かに落胆しながらも、ゆっくりと歩き出す。
帰らなければいけない。
それは、もしかしたら幼馴染みが関係しているのだろうか。そんなことを思いながら、無心で前に進み続けた。



「どうするか、決めたの?」

声がした。
一呼吸置いて、ゆっくりと振り返る。

「いつものように聞き分けのいい子でいるのか、それとも自分の気持ちに素直になって悪い子になるのか」

薄暗い通路の前で、自分が問いかける。
その後ろでは、母に抱きつき泣きじゃくる妹の姿があった。
幼馴染みに告白して振られたのだろう。悲しみを切々と語る妹に、母は優しく頭を撫でて慰めている。
不意に母が顔を上げ、こちらに視線を向けた。困ったように微笑んで、妹を撫でながら口を開く。

「しばらく、彼と会うのは止めてちょうだい。お姉ちゃんなんだから、妹のために気を利かせてやってね」

咄嗟に言い返そうとした言葉は声にならず、代わりに強く唇を噛みしめる。
苦しい。母の言葉も、何も言えない自分の弱さも、苦しくて堪らない。そんな自分を見つめて、もう一人の自分は無感情に問う。

「どちらにするの?家族か、私か」
「私?」

提示された選択肢の意図を理解しかねて、眉を寄せる。もう一人の自分は頷いて、静かに告げた。

「家族を選べば、私はずっとお姉ちゃんのまま。私を選べば、お姉ちゃんではなくなるの」
「家族……お姉ちゃん……」

母と妹へと視線を向ける。母の胸に縋り泣く妹と、眉を下げ微笑む母。凍り付いたまま動かない二人を見て、唇が震えた。
選べるのは一つだけ。迷い彷徨う目が、もう一人の自分を見る。無表情なその顔は、それでも選んでしまっているように見えた。
目を逸らし、家族や自分に背を向ける。無数に映る鏡の中に、白い光を見つけて歩き出す。

「本当に帰るの?どちらを選んでも苦しくなるのに」

歩く自分の横を、幼い自分が着いてくる。

「帰って、また何も言わないままでいるの?ずっとそうだったように」

反対側で、学生時代の自分が冷めた目をして歩いている。
それらを振り切るように駆け出した。

「帰らないと。いつまでも迷っている訳にはいかないから」

はっきりと言葉にすれば、過去の自分たちは消えていく。

「どちらにするか、まだ決めていないのに」

後ろから声がした。けれどもう立ち止まることも、振り返ることもしない。
只管に、光に向かって駆けて行く。
そして、その光を抜けた瞬間。

真っ白な世界の中で、何度も自分を呼ぶ幼馴染みの声が聞こえた気がした。



「っ、起きたのか!?」

目を開けると、焦ったような幼馴染みの顔が視界いっぱいに映り込む。
声をかけようとするが、口から溢れるのは掠れた吐息だけ。起き上がろうとしても、体に力が入らなかった。

「無理するな。もう一週間も目を覚まさなかったんだぞ」

そう言いながら、幼馴染みはベッドのリモコンを操作し、リクライニングを上げる。床頭台の上のペットボトルと取ると蓋を開け、手渡してくれた。

「急ぐな。ゆっくり飲めよ」

頷いて、一口ミネラルウォーターを飲む。乾いた喉が潤う感覚にそっと息を吐いた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

礼を言いながらペットボトルを渡せば、幼馴染みは安堵したように笑う。しかしペットボトルを床頭台に戻してこちらに向き直った時には、その笑みは消えていた。

「正直に答えて欲しい。俺と結婚するのは、そんなに嫌だったのか?」

問われて息を呑んだ。俯きかける顔を必死で上げて、静かに首を振る。
嫌な訳ではない。幼馴染みに告白された時は、本当に嬉しかったのだ。
けれど妹の泣き顔が、母の言葉がちらついて離れない。返事をしようとする度に、家族が声を奪っていく。
それを幼馴染みに伝えることもできず、苦しさに両手を強く握り締めた。
そんな自分を見て、幼馴染みはそっときつく握った手を包み込む。目を合わせて、真剣な顔で問いかけた。

「選べないってんなら、攫っていってもいいか?」
「――え?」
「お前が家族を大切にしているのは分かるし、お前の家族もお前のことを愛しているのも分かる。それで動けないなら、俺が手を引いて連れ去ってやるよ。嫌なら手を振り払ってくれればいい」

その目の強さに、頷くことも首を振ることもできない。代わりに視線を落として、両手を包む幼馴染みの手を見つめた。
温かくて大きな手。いつも自分を導いていたこの手を、振り解くなんてきっとできないだろう。

「今すぐじゃない。でも卒業と同時に、お前のこと連れていくからな」
「――うん」

笑いながらも真剣な声音。包む手に力が籠もり、そっと頷いた。
顔を上げる。微笑む幼馴染みの顔が、昔二人で憧れたテレビのヒーローと重なって、眩しさに目を細めた。
幼馴染みはいつだって自分のヒーローだった。今更ながらにそれに気づいて、小さく笑みが浮かぶ。

「動けない私をいつも助け出してくれる、ヒーローみたいだね」

そう伝えれば、幼馴染みは目を瞬き苦笑する。

「俺がヒーロー?そんな訳ないだろ。俺はとっても悪い、悪の魔王だよ」

包む手を離し、頭を撫でられる。意地悪く笑いながら、床頭台の上を見つめた。

「なんたって、皆の大好きなお姉ちゃんを攫っちまうんだから」

床頭台の上に飾られた綺麗な花が、それに答えるように小さく揺れていた。



20251112 『心の迷路』

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