古井戸の底

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12/6/2025, 2:14:07 PM

彩子は、だいぶ前にパケ買いしていたクラフトビールの蓋を開けた。
ソーセージのバター醤油焼きをつまみに、酔わないよう水と交互に飲んでみる。
オレンジピールが入っているらしく、特有の爽やかな酸味の後に、ビールらしい麦の風味が広がる。苦味は特に感じなかった。つまみはあっという間になくなった。

『こんばんは。今週もお仕事お疲れ様です』
『前に買ってたクラフトビール、開けて飲んでました。思ったより苦くなくて美味しかったです笑』

八木橋のトークルームに文を投げかけた。彼も今夜は何かしら飲んでいたのだろうか。
彼が以前、話に出していたフィギュアが届いたと報告してくれた時のように、返信を促すような文面にはしなかった。明日あたり通知が来たらめっけもんだ。そう思うことにした。

【消えない灯り】彩子19

12/6/2025, 7:19:34 AM

八木橋と久しぶりに会った。静かな、穏やかな午後だった。

ペットカフェはあくまで犬との触れ合いを主とした場所で、飲食はできなかった。1時間の制限があったものの、許す限り犬を撫で、写真を撮りまくった。最後にチェキの撮影を頼み、合法的に八木橋とのツーショットを手に入れた。
カフェを出て1日空けておくと言ったとおり、彩子が近くの喫茶店に誘うと、特に渋る様子もなくついてきた。
残業の労いにと用意した紙袋を渡すと、まさかもらえるとは思っていなかったと、予想通り戸惑っていた。
その後は相変わらず彩子から話を振って行った。恋愛話より、彼の仕事や家族の話を聞いた。
たまに沈黙も生じたが、彩子に初回のような焦りはなかった。父や職場の男性とふたりでいる時もよくあることだと考えれば苦しくなかった。彼の会話のスピードが遅かったせいか、藤堂と気まずくなった時のような聞き間違いもほぼなかった。自分が繊細体質であることも、自然と伝えられた。

イルミネーションの飾られた通りを軽く回り、ふたりして黙って風景の写真を撮った。騒がしい外は余計に喋らない方が楽だった。最後に年明けまた会おうと言って別れた。
まだ知り合って2ヶ月ほどの、友情とも恋愛とも言えない名のない関係のまま、恋人たちの残した足跡をなぞった。

もう少し未来の話ができれば、きっと。

【きらめく街並み】彩子17

12/3/2025, 10:29:45 AM

『そちらがよければ予約しておきますね。時間は何時くらいが良いですかね?』

『了解です。ありがとうございます!』
『1日空けておくので、時間はいつでもだいじょぶです』

八木橋に入店時間の確認を取るだけなのに、彩子は不安に駆られていた。いつもいつも場所取りをしていた元カノは大変じゃなかったのだろうか。

彩子は自分が選んだ店に対してネガティブな意見や反応を返されることを非常に嫌う。以前親友と行った絵画展は、実は販売展示会で、画商を避けるのに疲れた。藤堂との2回目デートで行ったカフェは席に着く前に注文するスタイルで、藤堂を焦らせてしまった。
八木橋との初対面のカフェだって、親友と何度も行ったところだから自信があったのに、それでも八木橋を緊張させてしまった。
自分は店選びのセンスがない。相手を喜ばせてあげられない。トラウマが彩子の中にずっとつもり続けている。これ以上、藤堂の時のような失敗を重ねたくない。ふりだしになんて戻りたくない。

『ありがとうございます。では14時ごろにしましょうか?もし埋まってたら前後の時間で予約しておきますね』

彼はきっと、料金はいくらだとか、事前予約は前払いでキャンセルができないだとか、そんなことを調べてはいない。
そっちが委ねてきたんだから、絶対文句言うなよ。
悴む人差し指で、送信ボタンを押した。

八木橋との再会まで、残り2週間を切っている。


【冬の足音】彩子14

12/2/2025, 2:47:47 PM

『今週は毎日22時まで残業でちとしんどかったです笑』『土曜日お仕事がんばです!』

今までにない気持ちの揺れに翻弄されていた彩子は、最低限の家事すらまともにできていなかった。
八木橋を見習って午後から半休を取り、掃除洗濯買い出しのすべてを片付けることにした。

「何かしらプレゼントを渡してみるといいかもしれません。クッキーとか」
「あー、ウイスキーならナッツとレーズンがいいかもね。ビールならジャーキーとかサラミとか」

占い師のアドバイスを鵜呑みにして、帰路に着く前にKALDIへ向かう。自分がビールを買ったからと嘘をついて社長から聞き出したおつまみを、ふたつほどカゴに入れた。合わせて600円程度、金額的にも彼に気を遣わせない程度に済んだ。
100均で紙袋も買い足す。初対面の時、彼はバッグを持たず、財布をズボンのポケットに入れていた。明日もそうなら、取っ手のついたある程度しっかりした作りの袋が必要になる。クリスマス柄だとあからさまなので、シンプルなデザインのものを選んだ。

知り合って間もない男のために、自発的に何かを買うなんて、彩子にとっては初めてのことだった。

「残業続きでお疲れでしょうから。良かったらお酒と一緒にどうぞ」

戸惑う彼の表情が浮かんだ。


【贈り物の中身】彩子16

12/1/2025, 10:52:09 PM

彩子の両親は見合い結婚だった。母はその当時では珍しく、結婚こそ女の幸せという考えを持たない人だった。
彼女はかつて、母親――彩子にとっての祖母――から早く嫁に行くように言われていた。小姑がいると、長男である兄に良い人が現れないからだそうだ。
見合いに来るのは曰く付きの男ばかりだった。初対面で何も言わずに隣県まで車を飛ばす。口を閉ざした本人の隣で母親ばかり出しゃばる。こんな奴らと共に過ごすくらいなら、いっそ従姉妹とシェアハウスでもした方がマシだと考えていたらしい。
母が最後の見合いだと決めた時、その相手は父だった。親同士が偶然同じ職場で働いていたことからの縁だった。父は相変わらず無口だったが、母にとっては唯一まともな男だった。跡継ぎの圧がない次男、車の運転が上手い、酒には弱い、愚痴を聞いてくれる。
仕事に追われしばらく会えずにいると、父は東京へ異動が決まった。母はそれを身内づてに聞いていた。軽いドライブデートをした帰り、父は振られると思って異動の話を切り出せないでいたので、母から声をかけた。

「どうするの?」
「俺も異動決まっちゃったしな……来てもらえる?」
「いいよ」

プロポーズはあっさりしていた。
母がOKを出したのは、父への恋愛感情というよりも、多忙な仕事や親の圧から、いい加減自由になりたいがためだった。「この人じゃなきゃダメ」ではなく、「この人だったらまあいいか」くらいの気持ちだったようだ。こうして父と母は恋仲という期間が明確にないまま東京で暮らし始め、その後東北へと戻ってきた。

父は自分の都合に合わせてくれた母に申し訳なく思っていたのか、その後何度かドライブデートに誘ったそうだ。今では母の足役となっている父からは考えられないと、彩子は思った。

八木橋と父が全く別の人間だというのは分かっている。ただ、彼はあまりにも出不精すぎる。この街に出てきて数年しか経っていないせいもあるのだろう。
彩子は不安だった。場所の提案は、同行人を楽しませなければならない責任が伴うのだ。私が薦めたカフェが気に入ってもらえなかったらと思うと、自己を否定されたが如く落ち込む。

「言い出しっぺなのにノープランですみません。お友達と話していた中でどこか良さそうなところありました?」

八木橋は自分を信頼しているのだろうか、それとも面倒なだけなのか。



【凍てつく星空】彩子13

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