お題『安心と不安』
夜更けの部屋は静かで、カーテンの隙間から街灯の光が細く伸びていた。
ソファに並んで座る二人の距離は近いのに、七海の胸の内には言葉にしづらいざわめきがあった。
「……どうかしましたか、猪野くん」
七海がそう尋ねるより早く、猪野は七海の手を取った。その掌は少し熱を帯びていて、体温だけで心臓が落ち着くのを感じる。
「考え事してたでしょ。最近さ、そういう顔多い」
「いえ。仕事のことを少々……」
微笑みでごまかしたつもりだったが、猪野は納得しなかったらしい。七海の手をぎゅっと握り直す。
「七海サン、なんでそんな不安そうなの?」
その率直さに、七海は一瞬言葉を失った。
年下の恋人に弱さを見せるのは、正直、少し怖い。
「……君は若い。これから出会いも多いでしょうし、本当に私が隣にいてよいのか、君の未来を奪っているのではないか、と」
口に出した瞬間、不安が形を持ってしまった気がした。七海は視線を落とす。
すると、猪野が小さく笑った。
「そんなの、いいに決まってるじゃないですか」
猪野は七海の顎に指を添え、やさしく顔を上げさせる。
「安心してください。俺が好きなのは七海サンだけ。年齢とか関係ない」
「……本当ですか」
「本当です。むしろさ、不安になる七海サンも可愛いって思ってる。だって、不安になるくらい俺のこと大切に思ってくれてるってことでしょ?」
そんなことを真っ直ぐに言われて、七海の胸がきゅっと締め付けられる。
同時に、ふわりと温かいものが広がった。
「ずるいですね、君は」
「そうかもしれません」
猪野はそう言って、七海を抱き寄せる。胸に顔を埋められ、七海は小さく息を吐いた。
「……君がそう言うなら、不安も悪くありませんね」
「でしょ? 不安があるから、安心もわかる」
猪野の腕の中は、驚くほど落ち着く場所だった。
年上としての自負も、不安も、すべて受け止められている気がした。
七海はそっと猪野の背に腕を回し、静かに微笑んだ。
「では今夜は、この安心に甘えさせていただきます」
「どうぞ。気が済むまで」
重なった体温が、夜の静けさをやさしく満たしていった。
お題『君に会いたくて』
最終の新幹線。七海は腕時計を見て小さく頷いた。
予定よりも早い帰宅。本当は、今日は出張最終日のはずだった。任務は前倒しで片付いた。合理的判断――そう言い聞かせながら、胸の内では別の答えがはっきりしていた。
(……猪野くんに会いたい。早く声が聞きたい)
胸の奥にぽっかり空いた隙間が、彼を求めていた。七海は自嘲気味に微笑む。
エレベーターを降りて玄関のドアに鍵を差し込む。その一瞬さえ、もどかしい。
「ただいま戻りました」
扉の向こうから、ばたばたと足音。
「え、七海サン!?」
駆け寄ってきた猪野は驚きと喜びが入り混じった顔で立ち止まり、それから一歩もためらわず七海を抱きしめた。
「聞いてないんですけど!」
「申し訳ありません。連絡を入れる余裕がなくて」
「あ、謝らないでください。びっくりしただけっすから。……でも、どうして?」
抱きしめられたまま、七海は少しだけ言葉を選び、それから静かに告げる。
「……君に、会いたくなったんです」
猪野の腕に力がこもり、七海のスーツに顔を埋める。
「ずるい! そんなの、嬉しいに決まってるじゃないっすか」
「ふふ。そう言っていただけると、私も救われます」
七海が背中を撫でると、猪野はゆっくり顔を上げ照れたように笑った。
「俺も会いたかった。七海サンがいないと、家、静かすぎて」
「それは……申し訳ありません」
「そこも謝らなくていいですって」
額を寄せ合う距離で、猪野が柔らかく笑う。その瞳に映る自分を見て、七海は胸の空白がゆっくりと満たされていくのを感じた。
「俺、毎日七海サンのこと考えてましたよ。ちゃんとご飯食べてるかなとか、ちゃんと寝てるかなとか」
「それは……随分心配されていたようですね」
「恋人ですから」
即答すると、七海の表情が少しだけ柔らいだ。
「……私もです。君がきちんと休めているか、無理をしていないか、気になって仕方ありませんでした」
「じゃあ、おあいこですね」
猪野はそう言って、七海の手を握る。指と指が絡まり、自然と距離が縮まる。
「七海サン、寂しかった?」
「……はい。想像以上に」
「じゃあ、今日は俺がいっぱいくっついててあげます」
「ええ。君のお好きなように」
ソファに座ると、猪野は迷いなく七海の膝に乗り腕を首に回す。
「言いましたね?」
今度は七海の腰に手を回し、ぐっと引き寄せた。スーツ越しでも分かる体温に、七海の肩がわずかに揺れる。
「俺、七海サンがいない間ずっと我慢してたんです」
「……何を、でしょうか」
「七海サンに触れないこと」
耳元で囁くと、七海の喉が小さく鳴った。
「電話もメッセージも、もちろん嬉しかったですけど、それじゃ足りなかった」
そう言って、猪野は七海の顎に指をかけ、視線を合わせます。
「……俺も、会いたかった」
七海の返事を待たず、猪野はゆっくりと唇を重ねた。逃げ場を作らない、けれど乱暴ではないキス。
「……君のそばは、不思議と安心します」
「知ってます」
即答されて、七海は少しだけ笑った。
「好きです、七海サン」
「私もですよ、猪野くん」
年下の恋人の腕の中で、七海は目を閉じる。
離れていた時間が嘘のように、ぴったりと重なる体温。
――会えなかった分だけ今夜は長く、甘く。
君に会いたくて帰ってきたその場所で、君に甘やかされる夜が静かに始まる。
お題『美しい』
――美しい。
その言葉が猪野琢真の胸に浮かぶたび、決まって隣には七海建人がいた。
夕暮れのリビング。窓から差し込むオレンジ色の光が、七海の横顔をやわらかく縁取っている。スーツの上着は脱がれ、シャツの袖が少しだけ捲られている。その手元で、丁寧にコーヒーが淹れられていた。
「熱いので、気をつけてください」
七海はそう言って、マグカップを差し出す。言葉遣いは恋人になってからも変わらない。けれど、その声音は以前よりずっと、やさしい。
「ありがとうございます。……ねぇ、七海サンさ」
「はい、何でしょうか」
「今、すげーきれい」
七海は一瞬きょとんとしたあと、わずかに眉を寄せた。
「突然ですね。具体性に欠けますが」
「夕方の光とか、コーヒーの香りとか、七海サンの顔とか。全部ひっくるめてです」
猪野は照れもせず、まっすぐに言う。七海は困ったように小さく息を吐き、視線を逸らした。
「……全く君は、そういうところが反則です」
耳が、ほんのり赤い。それを見つけた瞬間、猪野の胸がきゅっとなる。年上で、理性的で、いつも落ち着いている七海が、自分の言葉ひとつで揺れる。その事実が、どうしようもなく愛おしい。
「七海サンのそういう顔も、きれいです」
「褒め言葉として受け取っておきますが、多用は控えてください。……心臓に悪いので」
そう言いながらも七海は猪野の隣に腰を下ろす。肩が触れ、体温が伝わる。
「美しい、ってさ」
猪野はカップを置き七海の手を取った。大きくて、少し硬い、傷もある、闘う人の手だ。
「完璧で、もっと遠いもんだと思ってました。でも七海サンといると、こういう普通の時間が一番きれいなんだって思うんです」
七海は黙って、その手を握り返す。指先が絡まり、逃げ場をなくす。
「……それは、光栄です」
低く落ち着いた声に、確かな温度が宿る。
「私にとっても、君と過ごす時間は美しいですよ。騒がしくて、少し無茶で……ですが、まっすぐで」
七海はそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。作り物ではない、柔らかな笑み。
猪野の心臓が跳ねる。
「やっぱずるいですって、それ」
「自覚はありません」
「あるくせに」
二人の距離が自然と縮まる。額が触れ、呼吸が重なる。
「……猪野くん」
「なんですか?」
「今の君も、十分美しいですよ」
そう告げてから、七海はそっと唇を重ねた。深くはない、確かめるようなキス。それでも、世界が静かに満ちていく。
夕暮れはやがて夜に変わる。それでも、この瞬間の美しさは、確かにここに残る。
猪野は思う。
――この人と生きる日々を、美しいと呼ぶんだ、と。
お題『寒さが身に染みて』
夜の街は冬の冷気で満ちていた。
猪野は小走りで七海の横に並ぶ。手袋をしていても指先が冷たくて、思わず肩をすくめる。
「……さむっ、さむっ……七海サン、手つなご?」
「ええ、構いません。猪野くん、無理に走らなくても大丈夫ですよ」
七海は静かに猪野の手を取り、指先まで丁寧に包み込む。温かさがじんわり広がって、猪野は思わず息を吐いた。
「ん……あったかい……」
猪野は手をぎゅっと握り返して、ぐっと体を寄せる。七海も自然と肩を少し丸め、二人の距離がぐっと近づいた。
「七海サン……こうやってくっつくと、寒さがぜんぜん気になりませんね」
「そうですね。……君と一緒なら、私も寒さを忘れます」
雪がちらつく道、街灯の明かりが二人を柔らかく照らす。
猪野の頬は赤く染まり、七海はその可愛らしさに胸を締め付けられる。
「ねぇ……七海サン、もっとこうしててくれる?」
「ええ……喜んで」
七海がそっと猪野を抱き寄せると、二人は冷たい風を忘れ、ただぬくもりだけを感じて歩いた。
身に染みるような外の寒さも、冬の街の静けさも、二人だけの甘い時間に変わっていった。
お題『色とりどり』
夕暮れの街は、今日もどこか無彩色に見えていた。けれど七海は知っている。猪野の隣に立った瞬間、世界は息を吹き返すのだと。
「七海サン、今日は寄り道して帰ろ?」
「ええ、構いませんよ。猪野くんがそう言うなら」
楽しそうに微笑む猪野。その表情を見るだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。年下で、でも意外としっかりしていて、気さくで器用で。そんな猪野が、自分にだけ見せる温かさが七海は愛おしくてたまらない。
二人で入った小さな花屋。色とりどりの花が並ぶ中、七海は少し目を細めて立ち止まった。
「……こうして見ると、花は不思議ですね。以前は気にも留めませんでしたが」
「そうなんすか?」
「ええ。君といると、今まで気づかなかった色が見える気がします」
その言葉に、猪野は照れくさくなって七海の手を握った。少し驚いたように瞬きをしてから、七海は指を絡め返してくる。
「君の手、温かいですね」
「七海サンの方があったかいよ」
他愛ないやり取りなのに、胸がいっぱいになる。恋人同士になってから、日常のすべてが宝物になった。コンビニの帰り道も、並んで飲むコーヒーも、お互いを呼ぶの声でさえも。
家に着くと、七海はエプロンをつけてキッチンに立つ。
「夕食、簡単なものでも構いませんか?」
「七海サンの作るものなら何でも!」
振り返って少し困ったように笑う七海。その頬にそっと口づけると、耳まで赤くしてしまった。
「……もう、猪野くん、危ないですよ」
「へへ。好きだよ、七海サン」
「……私もです」
君といると世界が色彩豊かになる。世界が広がる。
そう思える毎日が、七海にとって何より甘く、確かな幸せだった。